2006年8月 8日 (火)

忠治の家族

国定忠治の周りの人たち.4

国定忠治は文化7年(1810)、上野国佐位郡国定村(群馬県伊勢崎市国定町)に生まれました。

父親は長岡与五左衛門(1784-1819)、母親(1792-1845)は間野谷村の金田助五郎の娘でした。

本名は長岡忠次郎で、忠治というのは俗称です。本来なら、忠次と書くべきなのですが、忠治の方が一般的になってしまったようです。忠次本人は、そんな事ア、どっちでもいいやな、と言いそうですが。

祖父は権太夫といい、忠治が7歳の時に亡くなっています。祖母は忠治が生まれた時にはすでに亡くなっていました。

二つ年上の兄がいたようですが、幼くして亡くなり、四つ下に弟の友蔵(1816-1889)がいます。

忠治が生まれた長岡家は名主を務めた事もある家柄で、八反屋敷と呼ばれる広い敷地を持つ裕福な農家でした。

父親は赤堀村の本間仙五郎の道場で念流の剣術を習い、なかなかの腕だったようです。仙五郎の倅の千五郎と同い年で、兄弟弟子の間柄です。後に、忠治は千五郎から剣術を習います。

父親がもう少し長生きしていたら、忠治の生き方も違っていたでしょうが、父親は忠治が10歳(数え年)の時、36歳の若さで亡くなってしまいました。残された母親は二人の子供を抱えて苦労した事だろうと思います。

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2006年8月 5日 (土)

島村の伊三郎

国定忠治の周りの人たち.3

国定忠治に殺された島村の伊三郎は東上州の利根川流域を仕切っていた親分でした。

船問屋の倅に生まれて、二十代の半ば頃、無宿者になって島村一家を張ります。本姓は町田といい、背丈が6尺もあった大男だと伝えられています。最初の縄張りは島村と平塚河岸でした。

当時の平塚は江戸と上州を結ぶ航路として栄えていました。江戸からの船が平塚まで上って来て、様々な物資を運んでいたのです。河岸には船問屋の土蔵がいくつも並び、大勢の人足たちが働いていました。当然のごとく博奕が盛んで、稼ぎになる縄張りでした。

伊三郎は利根川筋の小さな一家の親分たちを吸収して勢力を広げて行きます。30歳の頃、八州様と呼ばれた関東取締出役(とりしまりしゅつやく)の道案内になって十手を持つようになります。

道案内というのは江戸でいう岡っ引きみたいな者です。関東の地は支配者がバラバラで、細切れ状態になっていました。悪い事をしても支配者の違う土地に逃げ込めば、捕まえる事はできません。そこで、幕府が考えたのが関東取締出役です。彼らは誰の土地だろうが入って行って悪人を捕まえる権限を持っていました。しかし、江戸に住んでいる八州様には土地勘がなく、道案内を必要としたのです。

本来なら、道案内は各地の名主が勤めるべきなのですが、無法者を捕らえるには、その道の者の方が具合がいいので、博奕打ちの親分たちが勤めるようになりました。お上のお勤めをするかわりに、お目こぼしをしてもらうというわけです。

博奕打ちでありながら、お上の手下を勤めている者を二足の草鞋と呼びました。国定忠治はそんな筋の通らない事はないと言って嫌いましたが、二足の草鞋を履いていた親分はかなりいました。忠治を助けた玉村の佐重郎も前橋の福田屋栄次郎も二足の草鞋でした。

勢力を広げて行った伊三郎ですが、境宿を縄張りとする百々一家を配下に加える事はできませんでした。絹市の開かれる境宿は相当な稼ぎになる縄張りです。伊三郎は何としても、手に入れようと企みます。そして、百々一家の跡目を継いだ国定忠治と対立するわけです。

天保5年(1834)7月2日、日の暮れた後、世良田の賭場へ向かう伊三郎の一行を忠治たちが襲撃しました。伊三郎44歳、忠治25歳でした。

伊三郎は忠治を見くびっていたのでしょう。もし、自分が忠治の立場だったら、同じ事をしていただろうに、そんな事まで考えず、忠治にそんな度胸はないと軽く見ていたようです。

伊三郎の死後、島村一家は分裂してしまい、忠治の勢力は広がって行きます。

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2006年7月24日 (月)

大前田栄五郎

国定忠治の周りの人たち.2

本名は田島栄五郎です。一般に大前田村の栄五郎で通っていますが、大前田一家の親分ではありません。大前田一家は兄の要吉が継いでいたので、栄五郎は旅で男を売って名を上げました。名古屋から伊豆にかけて東海地方に縄張りを持っていたようです。

15歳の時、兄弟分の月田村の栄次郎と一緒に三下奴を斬って、最初の旅に出ます。その時は2年程で故郷に戻れたようです。

25歳の時、月田村の栄次郎と武井村の和太郎の三人で、東上州の大親分と言われた久宮(くぐう)一家の丈八を殺します。この時は指名手配になってしまい、故郷に近づく事は難しくなってしまいます。栄五郎は美濃へ、栄次郎は甲州へ、和太郎は日光へと、バラバラになって逃げ、各地の親分さんを訪ねての長い旅が始まったのです。

30歳の頃は名古屋に落ち着いていたようですが、32歳の時、江戸に出て、無宿狩りに遭って捕まってしまいます。牢屋に入れられ、その後、佐渡ヶ島に送られます。佐渡の金山の金掘り人足をさせられたのです。

佐渡送りにされたら、二度と生きては戻れないと言われていましたが、栄五郎は見事に島抜けに成功します。佐渡ヶ島には一年位いたようです。

島抜けの後、武州の藤久保に隠れていた時、国定忠治が無宿人を殺して頼って行きます。その頃には、栄五郎の名は博奕打ちの世界では有名になっていて、あちこちに呼ばれては喧嘩の仲裁役を買って出ていました。

41歳の時、兄弟分の栄次郎の仲介で久宮一家との和解が成立して、ようやく、故郷に戻れるようになりました。

明治7年、82歳で亡くなるまで、大親分として各地の親分さんたちから畏敬の目でみられ、仲裁役として活躍していました。

「大前田栄五郎の生涯」より     大前田栄五郎の略歴

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2006年4月18日 (火)

お町は村一番の器量よし

国定忠治の周りの人たち.1

忠治が惚れたお町は国定村の隣村の田部井(ためがい)村に生まれました。

忠治とは同い年です。

父親は尾内(オナイ)市太夫といいますが、お町が幼い頃に亡くなったようです。

庄八という兄がいて、博奕打ちになって、尾内の嘉藤太(かとうた)と呼ばれます。

お町が六歳の時、母親も亡くなり、隣に住む本家の尾内弥平次の養女になります。

弥平次は名主を務めていて、お町は名主の娘として育てられ、読み書き、そろばん、裁縫など、一通りの芸事を習います。

村一番の器量よしで、忠治だけでなく、若者たちの憧れの的でした。

16歳の時、伊与久(いよく)村の深町某に嫁ぎますが、二年後には別れて戻ってきます。

伊与久村の深町家というのは、学者の家系で、忠治の死後、忠治の悪口を残した深町北荘という人も出ています。

堅苦しい家柄に耐えられなくなって、離縁したのかもしれません。

田部井村に戻ってきたお町は忠治と再会して、忠治の妾(めかけ)になります。

本妻のお鶴は忠治の実家を守っていて、やくざ渡世に関係しなかったので、お町が子分たちからアネサンと呼ばれていました。

忠治との間に子供はなく、忠治が捕まった時も一緒にいました。

その時は41歳でしたが、相変わらずの美人で、10歳は若く見えたと伝えられています。

忠治の処刑後、その美貌ゆえに、新田郡田中村の田中秀之進の妾になります。

秀之進が尊王運動に身を投じて処刑されると、東小保方(ひがしおぼかた)村の高橋某の後妻に納まります。

高橋某の病死後、田部井村に戻って、裁縫の師匠として過ごし、忠治の死から20年後の明治三年、61歳で亡くなりました。

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