木枯し紋次郎

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国定忠治の無頼日記65 天保6年(1835)7月~26歳
境宿の賭場を見回ったら、新しい女壷振りが2人もいて、ほんとにたまげたぜ。
大黒屋には羽衣のお藤がいて、佐野屋には観音のお紺がいたんだ。
羽衣のお藤はおりん姉さんが仕込んだ娘で、おりんさんが田部井(ためがい)村で壷を振っていた頃、おりんさんの真似をしていた娘の1人で、おりんさんに何度も断られても諦めねえで弟子になったんだそうだ。どことなく冷てえ感じのする、ほっそりとした美人で、それがまた賭場の雰囲気にぴったりなんさ。絶対に笑ったりなんかしねえもんで、物知りの旦那が「羽衣」ってえ能に出てくる天女にそっくりだと言ったことから、羽衣のお藤って呼ばれるようになったんさ。
観音のお紺は水沢観音で有名な水沢村から出てきたんで、観音のお紺と呼ばれているそうだ。お藤とは対照的にいつも微笑している可愛い女さ。お紺は4年前に父親と一緒に境の絹市に来て、おりん姉さんとお辰の噂を聞いて、父親と一緒に伊勢屋の賭場に入ったんだ。壷を振るお辰に憧れて、壷振りになりたいと父親に言うと父親は大賛成して、すぐに大久保一家で壷を振っていたという爺さんを連れて来て、お紺に仕込ませたんだ。お紺は爺さんと一緒に賭場を渡り歩いて修行を積んで、去年の末に百々村にやって来た。おりん姉さんの目にかなって、百々一家に入ったんさ。
伊勢屋の吉祥天のお辰、佐野屋の観音のお紺、大黒屋の羽衣のお藤、3人ともいい女で、どこの賭場も賑わっていたぜ。
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国定忠治の無頼日記64 天保6年(1835)7月~26歳
ひとっ風呂浴びて旅の垢を流して、さっぱりした後、軍師から今の状況を聞いて、御隠居(紋次)に挨拶をして、それから国定村に帰ったんさ。
先にお町に会うか、お鶴に会うか迷ったけどな、やっぱり筋道は通さなけりゃ、子分どもに示しがつかねえって思って、本妻のお鶴の方を先にしたのよ。
お袋もお鶴も元気そうだったぜ。秋の養蚕が始まって、忙しそうに働いていたよ。その夜はお鶴をたっぷりと可愛がって、次の日、お町んちに行ったんさ。
お町の奴、「一晩中、待ってたのに、何よ」って、すげえ顔して怒りやがった。箒を振り回して追い立てやがるんで、仕方なく、嘉藤太んちに逃げたんさ。
旅の話を聞かせた後、嘉藤太が頼みがあるって言ったんさ。何かと思ったら、一家の名前を百々一家から国定一家に変えてくれって言うんだ。国定村のみんなも、おらが村の親分が百々村にいたんじゃ面白くねえ。こっちで一家を構えてくれってな。
それも悪かアねえたア思うが、御隠居もいる事だし、すぐには無理だんべえが、そのうち考えるって俺は答えて、ちっと一眠りしたら、もう夕方になっていやがった。
お町んちに行って、まだ怒ってるかと様子を探ったら、お町の奴、縁側でしょんぼりしていやがった。俺が声を掛けたら、顔をふくらませたけど、にっこり笑って「お帰りなさい」って言ったよ。
まったく可愛い奴よ。酒を飲みながら、お町に旅の話を聞かせて、勿論、野沢のお篠の事は隠したけどな、のんびりと過ごして旅の疲れを取ったんさ。
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国定忠治の無頼日記63 天保6年(1835)7月~26歳
一年が過ぎて、やっと故郷に帰って来られたぜ。
下総の方に逃げてった富五郎たちも去年のうちに帰っていたようだ。うめえ具合に境宿が手に入って、人手が足らなくなって軍師が呼び戻したんだそうだ。
俺たちが伊三郎を殺して国超えした後、留守を守っていた軍師たちは殴り込みに備えて、待ち構えていたんだけどよ、いつになっても殴り込みには来なかったらしい。
伊三郎がいなくなった島村一家は仇を討つどころじゃなくて、跡目争いを始めやがったようだ。本家の彦六と代貸の林蔵が争い始めて、林蔵は殺され、平塚の留五郎も殺された。仲裁に入った世良田の弥七も殺されちまったという。
弥七の跡を継いだ茂吉の野郎が伊三郎を殺した百々一家に助けを求めて来るってえ、奇妙な事になったらしい。軍師は助けを求めている者を追い返すわけにも行かず、子分たちを引き連れて世良田に向かったそうだ。
彦六は裏切り者の茂吉を殺そうと代貸たちに声を掛けたが、以前から彦六のやり方に反感を持っていた代貸たちは島村一家から抜けて独立すると言ったそうだ。
島村一家は分裂して小せえ一家がいっぺえできて、それぞれが百々一家と張り合うほどの力もなく、境宿から出てったんだそうだ。軍師は桐屋と大黒屋の賭場を取り戻して、境宿は以前のごとく、百々一家の縄張りになったんさ。
まったく信じられねえ事だがよう、留守にしていた間に百々一家はでっかくなっちまって、知らねえ子分どもが何人もいやがった。
俺と文蔵が顔を出したら、殴り込みかと勘違えした勇ましい野郎もいたぜ。
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国定忠治の無頼日記62 天保5年(1834)8月~25歳
信州の野沢の湯にはおよそ一年も隠れていたんさ。
こいつア、お町にゃア、絶対に内緒なんだけどよ、お篠ってえ別嬪と出会ってな、ずっと一緒だったんさ。
お篠は宿屋をやってる後家でな、俺たちがその宿屋に泊まった時、中野の博奕打ちで原七って野郎がお篠をものにしようって、のこのこやって来やがった。
お篠が嫌がったんで、俺たちでちょっと痛え目に遭わせてやったんさ。そしたら、その夜、原七は子分どもを引き連れて威勢よく仕返しに来やがった。またもや、痛え目に遭わせて追い返したってわけよ。
それが縁でな、お篠の奴も俺を頼りにしてくれたってわけさ。後家っていったって、まだ21歳の俺好みの女だったんさ。お町には内緒で、お篠と夫婦気取りで暮らしていたのさ。
9月になって、一緒にいた民五郎と浅次郎は上州に帰ったんさ。幸い、手配されたのは俺と文蔵の2人だけだったんだ。軍師からの知らせを持って赤堀の相吉が来て、奴と一緒に帰って行ったよ。
文蔵もこんな山ん中は面白くねえから早く帰りてえって、文句ばかり言ってたんだけどな、旅芸人のお滝に出会ってからは必死になって口説いていたよ。
お滝は体調を崩して湯治に来て、文蔵に見初められちまったのさ。文蔵のしつこさに負けたのか、文蔵とお滝もいい仲になって、夫婦気取りで暮らしていたのよ。
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国定忠治の無頼日記61 天保5年(1834)7月~25歳
大戸の関所を無事に通って、須賀尾峠を越えて、その日は大笹の寅五郎親分とこに世話になって、それから車坂峠を超えて信州に出たんさ。
松本に軍師の兄弟分の勝太親分がいてな、しばらくはそこで、のんびりしてろって言われたんだけどよ、あんまり居心地はよくなかったぜ。
軍師の手紙を見せたんだけど、俺の事なんか全然知らねえし、一応は客人扱いはしてくれたんだけどよ、さっさと出てってくれってな顔付きなんさ。たまたま一緒になった旅人から、善光寺の門前の権堂村に合の川の政五郎親分がいるって噂を聞いてな、そっちに行く事にしたんさ。
政五郎親分にゃア越後に行った時、文蔵と一緒に世話になってな、上州生まれの貫禄のある立派な親分さんだぜ。親分は権堂村で「上総屋」ってえ旅籠屋をやっててな、なぜか、源七って名前を変えていた。親分は俺たちの事を覚えていてくれてな、歓迎してくれたんさ。
そこにしばらく厄介になるつもりだったんだけどよ、そうは行かなくなっちまった。中野の代官所に手配書が回ってな、仕方なく、山ん中の野沢の湯ってえ湯治場に隠れる事になったんさ。
源七親分の子分の茅場の長兵衛ってえのが案内してくれてな、その後、ずうっと一緒にいたんだ。いい奴でな、兄弟分になったんさ。
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国定忠治の無頼日記60 天保5年(1834)7月3日~25歳
叔父御の八寸村の七兵衛のうちから旅立った俺たちはまず、吾妻郡の大戸の加部安(かべやす)の旦那んちに行ったんさ。
加部安ってなア、上州一の分限者って言われてる金持ちの旦那さ。
何年か前に、玉村宿の女郎屋で会ってな、意気投合したんさ。玉村一の女郎屋、玉斎楼に上がって、俺は玉村一の女郎、白菊を呼んだんさ。ところが、白菊はいつになってもなかなか来ねえ。俺ア頭に来て、白菊がいるってえ座敷に乗り込んだんさ。そこにいたのが加部安たったってえわけよ。
加部安の旦那は俺たちを恐れるわけでもなく、「俺が来るのを待っていた」と抜かしやがった。
「噂には聞いているが、渡世が違うんで、なかなか会う事ができねえ。これを期に近づきになってくんねえか」って言って、女郎衆を全員呼び集め、主人の幸兵衛まで呼んで大騒ぎしたんさ。その豪快な遊び方にゃア、俺もぶったまげたぜ。
いつか、遊びに来いって言われてたんで、ちょっと寄ってみたんだけどよ、大層な歓迎振りだったぜ。
加部安が造ってる「牡丹」てえ、うめえ酒を飲んで、うめえもんを食って、おまけに大戸の関所も簡単に通れたってわけよ。
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国定忠治の無頼日記59 天保5年(1834)7月3日~25歳
伊三郎を殺した後、俺たちゃ叔父御の八寸(はちす)村の七兵衛のうちに行ったんさ。
伊三郎を殺して来たって言ったら、七兵衛は目を丸くして、ぶったまげていたよ。
まあ、驚くのも当然の話さ。たった今、殺して来た俺たちだって、本当にあの伊三郎がくたばっちまったのかって信じられねえ思いだったんさ。あまりにもうまく行きすぎたからな。
伊三郎の子分どもが百々村に殴り込みをかけて来やがったら助けてやってくれって頼んで、俺たちゃ夜明け前に旅立ったんさ。
8人が一緒になって、ぞろぞろ行ったら目立ちすぎるんで、二手に分かれる事にしたんさ。
富五郎、友五郎、新十郎、才市の4人は行商人に扮して、友五郎の故郷の下総(千葉県)に向かったよ。
俺と文蔵、民五郎、浅次郎の4人はお伊勢参りに行く糸繭商人に扮して信州に向かったんさ。俺が若旦那で、文蔵が番頭で、民五郎と浅次郎は手代ってえわけさ。
いつ帰って来られるかわからねえ不安はあったけど、とくかく、今は一刻も早く遠くに逃げなくちゃならねえ。留守を守っている軍師たちの無事を祈りながら、俺たちゃア上州としばらく、おさらばしたのよ。
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国定忠治の無頼日記58 天保5年(1834)7月2日~25歳
待ちくたびれた頃に、やっと、伊三郎の野郎が提灯をぶらさげてやって来やがった。用心棒の永井兵庫は酔っ払っていやがるのか、フラフラしながら、下手くそな木崎節を歌っていやがる。
奴らが目の前を通り過ぎるのを見送ってから、俺たちは後を追ったのよ。向こうには富五郎たちが待機してるからな、挟み打ちにして倒すんさ。
文蔵が「伊三郎、待ちやがれ」と怒鳴ったのと同時に鉄砲の音が鳴り響いた。用心棒が撃たれたようだった。
「卑怯だぞ、てめえら誰だ」と伊三郎か叫んだ。
中瀬の新三郎も新十郎の弓矢にやられたようだった。三下奴どもが悲鳴を上げて逃げようとしたが、民五郎と浅次郎が向こうで待ち構えていた。
「おめえは忠治だな」と伊三郎が言ったが、文蔵が投げた手裏剣が腹に当たって苦しそうに身をかがめた。
俺は長脇差を抜いて、伊三郎の野郎をたたっ斬ってやったのさ。伊三郎の野郎は倒れて、首から血が噴き出していたよ。
頭ん中が真っ白になって、急に8年前の殺しがよみがえって来やがった。また、やっちまったって、胸ん中が重苦しくなって来やがった。
「親分、やったぜ」って文蔵が騒いでいたけど、俺アぼうっとして伊三郎を見おろしていたんさ。
「おーい、みんな、大丈夫か」って文蔵の声で、俺ア我に帰って、辺りを見回したぜ。
伊三郎以外の野郎はみんな逃げたとみえて、誰も倒れちゃいなかった。
浅次郎が提灯を持って来て、伊三郎を照らした。
伊三郎は体を震わせながら何事かを言っていた。
「何が言いてんでえ。最期の望みとやらを聞いてやるぜ」と文蔵が言って、伊三郎の口元に耳を近づけた。
伊三郎は唸りながら左手を伸ばすとガクリと事切れた。
「死にやがった」と富五郎が言った。
文蔵が伊三郎の死体をひっくり返して、腹に刺さった手裏剣を引き抜いた。
「へっ、ざまア見やがれ」と文蔵は言って、血だらけの手裏剣を伊三郎の着物で拭いた。
「伊三郎の奴ア何が言いたかったんだんべえ」と友五郎がぼそっと言った。
「そんな事ア知るけえ。妾の面倒でも俺たちに頼みかったんじゃねえのか」と文蔵が冗談を言ったが、笑う者は誰もいなかったんさ。
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国定忠治の無頼日記57 天保5年(1834)7月2日~25歳
伊三郎が大黒屋から桐屋に移ったんは半時(一時間)くれえしてからだった。鹿安(しかやす)が知らせに来ると、2人づつ組ませて、平塚道から世良田に向かう道の途中にある熊野神社に送ったんさ。
俺と文蔵は伊勢屋に残って、伊三郎が桐屋を出るのを待っていたのよ。
伊三郎の奴が桐屋からなかなか動かねえから、まったくイライラしたぜ。文蔵とちびちびと酒を飲みながら待ってたんだが、いやな事を考えちまってな。もしかしたら、こっちがやられるかもしれねえ。伊三郎の野郎に斬られちまうかもしれねえって、くだらねえ考えも浮かんだんさ。急に恐ろしくなって、やめるべえかとも思ったけどな、文蔵はやる気まんまんだし、そんな事ア言えやしねえ。俺も強がって、何でもねえふうに装ってたんさ。
それにな、もしかしたら、伊三郎の奴は世良田に行かねえで、まっすぐ島村に帰るかもしれねえって思ったりもした。そうすりゃア、今夜の襲撃は中止になる。そうなってくれって願ったりもしたけどな、そんな弱気な事でどうする。伊三郎の野郎は絶対にやらなきゃならねえ。たとえ、こっちがやられたとしても、やらなきゃならねえ。死んだら死んだで、俺に運がなかったって事よ。運を天に任せてやるしかねえって覚悟を決めたぜ。
一時(2時間)余りも経って、やっと、伊三郎は動きやがった。桐屋から横町にある島屋ってえ小料理屋に移って、腹ごしらえをしてるようだって、鹿安が知らせて来たんさ。
もう日暮れ間近になっていやがった。俺たちも伊勢屋を出て、島屋を横に見ながら熊野神社まで行って、待ち伏せしたんさ。
日もすっかり暮れて、人通りも途絶えて、聞こえるのは虫の鳴き声だけさ。うるせえ蚊を追い払いながら、俺たちゃアじっと桑畑ん中に隠れていたんさ。
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国定忠治の無頼日記56 天保5年(1834)7月2日~25歳
半月あまりの間、悔しい思いをじっと堪えて来たけどよ、やっと、絶好の機会ってえやつがやって来やがった。
今日は境宿の市日で、伊三郎の野郎は大黒屋と桐屋の賭場の見回りに来るんだ。いつもなら、日が暮れる前に利根川を渡って、さっさと島村に帰っちまうんだけどよ、今日はそうはいかねえ。
今晩、世良田の長楽寺で日待ちの博奕が開かれるんだ。世良田の顔役たちが集まる博奕で、伊三郎としても顔を出さねえわけにゃアいかねえ。日が暮れてから始まる博奕に顔を出すからには、夜道を歩くって事になるわけよ。そこが狙い目ってわけさ。
軍師とよーく作戦を練って、伊三郎襲撃に選んだんは、手裏剣を使う三ツ木の文蔵、鉄砲打ちの名人の八寸の才市、弓の名人の甲斐の新十郎、念流の使い手の曲沢の富五郎、居合い抜きの山王道の民五郎、神道流を使う神崎の友五郎、槍を使う板割の浅次郎、そして、俺の8人さ。
他にもやらせてくれって奴は大勢いたけどよ、後の事も考えなきゃならねえ。もし、うまく行ったら、俺たちは長旅に出なきゃならねえし、伊三郎の子分どもが百々村に攻めて来るかもしれねえ。軍師を中心に、国定の清五郎、五目牛の千代松、保泉の久次郎、田部井の又八らに留守の事を頼んだんさ。
伊三郎の野郎が大黒屋に来やがったんは昼過ぎだった。供回りはいつもと変わらず、用心棒の永井兵庫、子分の中瀬の信三郎と荷物持ちの三下奴が二人だけだった。俺がおとなしくしていたもんで、伊三郎の野郎は何の警戒もなく、やって来やがった。飛んで火にいる夏の虫ってやつよ。
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国定忠治の無頼日記55 天保5年(1834)6月15日~25歳
文蔵たちがひでえ目に遭わされて、世良田の祇園祭りなんか出たかアなかったんだけどよお、出ねえと伊三郎の野郎が警戒するって軍師が言うんで、しょうがねえとじっと我慢して出たんさ。
伊三郎を殺すためには今が我慢のしどころだって思ってよ、お客も来ねえような隅っこに賭場を開いて、女壷振りも連れて行かねえで目立たねえようにしてたんさ。
そん時の祭りは各地から女壷振りが集まって来てよ、まったく華やかだったぜ。そん中でも、木崎の親分が連れて来た昇り竜のお初は注目の的だったぜ。目の覚めるような別嬪でよお、背中に見事な昇り竜の刺青(ほりもの)をしょってるんさ。島村に養蚕長者の弥兵衛って旦那がいるんだけどよ、その旦那がお初の刺青に大金を賭けて勝って、お初を裸にして全身の刺青を拝んだってえのが評判になったっけ。
俺も勝負して拝んでみたかったけどよ、軍師が目立つなって言うんで諦めたんさ。
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国定忠治の無頼日記55

速えもんで、また新しい年がやってめえりやした。
2008年といやア、あっしが大戸で磔になってから、158年も経っちまった事になるぜ。
あれから、世の中はちったア、よくなったんだんべえか。
弱い庶民は高え年貢に困っちゃアいねえだんべえか。
あっしが生きた時代と今の時代を比べる事はできねえけどよ、あまり変わってねえような気もするぜ。
話は変わるけど、あっしの一代記「侠客(おとこだて)国定忠次一代記」がホームページで公開される事になったんで、ぜひ、読んでみておくんなせえ。
今年がいい年になるように、草葉の陰から祈っているぜ。
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国定忠治の無頼日記54 天保5年(1834)6月13日~25歳
世良田の祇園祭りの準備に出掛けて行った文蔵と民五郎が、伊三郎の子分、小島の彦六の野郎にメチャクチャに殴られて帰って来やがった。
文蔵の奴は血だらけの顔で、彦六のくそったれ野郎と伊三郎をたたっ斬ってやるって騒ぎやがる。
話を聞いて、俺も今度ばかりは軍師が止めても、伊三郎を殺してやるって思ったんさ。このまま黙っていたら、百々一家は笑いもんになっちまうからな。
軍師の円蔵さんも色々と考えたすえに、伊三郎を殺す作戦を立てるって言ってくれたぜ。絶対に失敗しねえように、よーく考えるってな。
作戦の事は軍師に任せて、俺たちはじっと我慢する事にしたんさ。
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国定忠治の無頼日記53 天保5年(1834)3月14日~25歳
お常を殺した下手人が捕まりやがった。
俺の子分の久次郎も下手人を捜しまわっていたんだけどよ、伊三郎の野郎に先を越されちまったってえわけのさ。伊三郎の奴は、浮世絵師の歌川貞利の助けを借りて、何でも、貞利のお陰で下手人を見つけ出したらしい。
お常をあんなひでえ事をしやがったのは、中瀬の荷揚げ人足の何とかって野郎だそうだ。
そいつは、普段からお常を付けまわしていて、お常の櫛や腰巻など隠し持っていたようだ。変態って奴だんべ。あんな野郎に殺されちまったなんて、お常も本当に可哀想なこった。
まあ、貞利の活躍で、下手人が捕まって、一件落着さ。これで娘たちも安心して眠れるだんべ。
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国定忠治の無頼日記51 天保5年(1834)正月~25歳
去年の正月に「婀娜稲荷(あだいなり)」ってえ、面白えわ印(艶本)を売り出した歌川貞利が、今年も「開談遊女魔庫(かいだんゆめまくら)」ってえのを出しやがったぜ。
見てる分にゃア面白えんだけどな、題材が気にくわねえ。4年前に、お仙さんが首をくくった事件を描いていやがる。お仙さんがならず者に手籠めにされてる図とか、素っ裸で首を吊ってる図まで描いてあるんだぜ。まったく、お仙さんが可哀想だ。
俺ア、貞利ってえ絵師をたたっ斬ってやるべえと思ったけどよ、軍師に止められたんさ。
その貞利ってえ奴は、その頃は江戸にいて、事件の真相を知ってるはずがねえ。きっと、伊三郎の野郎が後ろにいて描かせたに違えねえって言うんだ。絵師は素人だ。素人を斬ったら、笑い者になるだけだってな。
軍師の言う通りさ。悪いのは伊三郎に違えねえ。俺はじっと我慢したんさ。
それによ、貞利って奴は美人絵もうまくって、「美人例幣使道」ってえのも売り出したんだ。例幣使道の各宿場を代表する素人の美女を描いてな、境宿の代表は足袋屋「高砂屋」のお常だったんさ。その美人絵が売り出されたら、男どもが、お常を一目見ようと大変な騒ぎになったぜ。うちの若え者も、お常の絵を眺めながら騒いでいやがった。
まあ、境宿が賑やかに栄えるのはいい事だ。お常を見に来た男たちは景気をつけるかって、「伊勢屋」の賭場にやって来てくれたからな。
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国定忠治の無頼日記50 天保4年(1833)11月~24歳
去年は日照り、今年は長雨が続いて、とうとう暴動が起きやがった。
食う物がなくなっちまって、赤城山麓の百姓たちが武器を手にして伊勢崎方面に押し寄せて来たんだ。
俺ア子分どもを引き連れて縄張り内の村を守ったんさ。国定村と田部井村は何とか守る事ができたんだけどよ、堺宿は危なかったぜ。伊勢崎で暴れていやがる百姓たちが勢いに乗って、なだれ込んで来るかもしれなかったんさ。
伊三郎の野郎も十手を持って境まで出張って来やがった。憎らしい野郎だが、今は、野郎と喧嘩なんかしてる場合じゃねえんで、俺たちゃ百々村まで引き下がったんさ。百々村でくい止めりゃア、堺は大丈夫さ。
俺たちゃ、それこそ死ぬ気になって、からっ風の吹きすさぶ中、飛び道具の鉄砲と弓矢も用意して待ち構えていたんだけどよ、幸いに、伊勢崎の酒井家の侍たちが、富豪たちの蔵から米を出して施しを始めたんで、騒ぎは治まっちまった。騒ぎに同調していたならず者どもも、みんな捕まったそうだ。
ちょっと拍子抜けしたけどよ、内心はホッとしたんさ。いくら、百姓たちとはいえ、数には勝てねえからな、まったく、助かったぜ。
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国定忠治の無頼日記49 天保4年(1833)7月~24歳
国定村の赤城神社の祭りが終わった頃だった。大前田の栄五郎親分がひょっこりと百々村に顔を出してくれたんさ。
6年振りの再会よ。わざわざ訪ねてくれるなんて、うれしかったねえ。
栄五郎親分は久宮一家と和解して、上州に帰れるようになったって言っていた。大前田には親分の兄さんが一家を張っているんで帰らねえらしいが、大胡あたりに落ち着くらしい。栄五郎親分が近くにいてくれりゃア、ほんとに心強えぜ。
栄五郎親分は、赤城山のてっぺんに関八州の親分衆を集めて大博奕をやってみねえかって、俺に言いやがった。そんな事ができりゃア、ほんとに面白えんだが、今の俺じゃア、まだまだ無理だアな。もっと、男を売らなきゃならねえ。いつか、きっと、やってみせるって、親分と約束したんさ。
栄五郎親分は伊勢屋の賭場で遊んでったんだけど、気持ちいいくれえの負けっぷりだったぜ。
「いいか、忠治、堅気の衆と勝負する時は、決して勝っちゃあいけねえよ」って言ったんさ。「俺たちゃア堅気の衆におマンマを食わせてもらってる身だ。おめえも旅先で賭場に出入りする事もあるだんべえが、親分と呼ばれる者が旅先の賭場で稼ごうなんて料簡を起こしちゃアいけねえ。旅先の賭場で気前よく負けてこそ、親分の貫禄ってえもんだ。覚えておけ」
成程なアって俺ア感心したんさ。親分の言った事を肝に銘じて、立派な親分にならなくちゃアならねえって思ったねえ。
それにしても、栄五郎親分はすげえ貫禄だったぜ。
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国定忠治の無頼日記48 天保4年(1833)6月~24歳
世良田の祇園祭りの賭場に、俺ア、おりん姉さんを連れてって壷を振ってもらったんさ。各地から来た親分さんたちも、おりん姉さんの噂を知っていて、一目見たさにやって来てくれたぜ。
伊三郎の野郎は俺とおりん姉さんが一緒にいるのを見て、変な面をしやがったが、周りに親分衆がいるんで、何も言えなかったんさ。
「伊三郎もてえした親分だ。忠治におりんをくれてやり、シマ内の世良田の祇園祭りに忠治とおりんを参加させるたア、器量が大きいねえ」と褒める者もいりゃア、
「伊三郎親分もおりんを忠治に取られて、そのうち、シマまでそっくり取られちまうんじゃねえのか」と陰口をたたいている奴らもいたよ。
まあ、俺としちゃア、各地の親分さんたちとも近づきになれたしよ、弥七にやった十両は決して無駄にはならなかったってわけさ。
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国定忠治の無頼日記47 天保4年(1833)4月~24歳
伊三郎の代貸の世良田の弥七をやっつけべえと軍師の円蔵さんは色々と考えたんだけど、やっぱり、うめえ考えは浮かばなかったようだ。それでもって、軍師は思い切って、弥七と親しくなっちまえって考えた。
俺は反対したんだがよ、軍師が言うには弥七は面倒見のいい温厚な親分らしい。俺が弥七んとこに出入りして、伊三郎の野郎がどんな面をするのか見るのも面白えかもしんねえって、俺も同意したわけさ。
半と出るか、丁と出るか。うまく行きゃア、伊三郎と弥七の間に溝ができるが、下手をすりゃア、その場でとっ捕まるかもしんねえ。度胸を決めて、軍師と一緒に乗り込んだぜ。
弥七の子分どもがたまげていやがったが、弥七は落ち着いて、ちゃんと仁義を受けてくれたぜ。
弥七は俺の噂を聞いていて、一度、会ってみたかったって言ったよ。俺の襲名披露の時に、大前田の親分(栄五郎の兄の要吉)がわざわざ来てくれた事に驚いていたぜ。大前田の親分は余程の事がねえと腰を上げねえんだそうだ。その親分がわさわざ来てくれるたア大したもんだと、やたら感心していやがった。俺としても悪い気はしなかったよ。
軍師は百々一家を世良田の祇園祭りの賭場に参加させてくれって頼んだんさ。弥七はてめえの一存じゃア決められねえって言ってたけどよお、10両を包んで渡したら、ニヤニヤしながら、何とか考えようって言ったんさ。
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国定忠治の無頼日記46 天保4年(1833)3月~24歳
3年前に新五の兄貴を殺して、ずらかっていた小三郎の野郎が帰って来やがった。
文蔵が殺してやるって騒いだんだが、軍師に止められちまってな、丁度、そん時、草鞋を脱いでいた相州無宿の丈太郎さんが片をつけてくれたよ。
丈太郎さんは以前、紋次親分の世話になっていて、新五の兄貴の事も知ってたんだ。恩返しのつもりで仇を討ってやるって言ってくれたんさ。
うめえ具合に行ったんだか、伊三郎の奴が小細工をしやがって、小三郎はおふさって女と心中をしたって事になっちまった。
伊三郎は小三郎に兄貴の殺しを頼んでおきながら、小三郎を下手人として八州様に訴えたのさ。てめえで手配しておきながら匿うわけにもいかねえし、かといって、捕まえるわけにもいかねえ。処分に困って、あっしらが殺すのを待ってたのかもしれねえ。
小三郎は新五兄貴のかみさんに横恋慕して、強引にやっちまって、それを知った兄貴は小三郎を斬りに行ったが、逆にやられちまった。小三郎は旅に出るが、逃げ回るのに疲れ果て、故郷に帰って来て、昔の情婦を道連れに自殺したってえ筋書きになっちまった。
まったく、きたねえ事をするぜ。伊三郎の奴は絶対に許せねえ。
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国定忠治の無頼日記45 天保4年(1833)正月~24歳
年が明けやした。改めて、おめでとうごぜえます。
民五郎の奴が木崎宿に遊びに行って、面白えもんを買ってきやがったぜ。『婀娜稲荷(あだいなり)』ってえわ印よ。わらい本て奴さ。春本とか艶本とも呼ばれるけどな、要するにスケベな本のことよ。
描いた奴は夜雁亭(よがりてい)さね利ってえふざけた名前を名乗ってやがる。何でも、江戸で有名な歌川国貞の弟子で、歌川貞利ってえのが本当の名前だそうだ。つい最近、木崎宿に流れて来たそうだ。国貞の弟子だけあって、腕の方はなかなか大したもんだぜ。
この本がまた面白えのよ。上中下の三巻にわかれていてな、上巻にゃア、木崎宿の女郎たちが湯浴みしてる姿や化粧している姿や客を誘ってる姿が描いてあって、中巻と下巻にゃア、女郎とお客が色んな形で、仲良く抱き合ってる図が描いてあるんさ。その客たちの中に、見た事のあるような奴の顔も描いてあるんだぜ。まったく、笑っちまったよ。
貞利って奴だけどな、美人絵も売り出して、『当世木崎美人』てえ題で、12人の女郎たちを描いてるんだ。それを見ると、みんな、いい女に描いてあってな、実際に会ってみてえって思うもんだ。まったく、木崎の親分もうめえ事を考えたもんだぜ。こいつを見たら、男どもは木崎に飛んで行くぜ。現に、うちの子分どもも鼻の下を伸ばして飛んで行きやがった。
まあ、正月だからよ、あまりうるせえ事ア言わなかったんさ。
ついでに言うと、あっしらの時代は美人絵や役者絵などの浮世絵、黄表紙や読本、滑稽本や人情本、わ印もそうだが、出版物は大抵、正月に売り出されたんさ。
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国定忠治の無頼日記44 天保3年(1832)12月~23歳
世良田村に伊三郎の代貸で、弥七親分てえのがいるんだがよお、こいつを何とかして追い出しちまうべえって、今、軍師の円蔵さんが考えてるとこなんさ。
世良田村にゃア、祇園さんと長楽寺があってな、長楽寺ってえのは将軍様の菩提寺なのよ。境内に権現様(徳川家康)を祀った立派な東照宮もあるんだぜ。
世良田村は長楽寺の寺領で、将軍様にゆかりのある御朱印地なんさ。それでもって、よっぽどの事がなけりゃア、八州様だろうが立ち入りできねえのよ。賭場を開くにゃア、絶好の土地ってえもんだ。世良田の村の者は他所の村より銭持ちが多いし、長楽寺の坊主たちは博奕好きと来てらアな。
6月にゃア、盛大な祇園祭りかあって、各地から名のある親分衆が集まって来て、賭場を開くんさ。そのショバ(場所)代を集めるだけでも大した実入りがあるってもんよ。
弥七と伊三郎を切り離して、うめえ具合に世良田村を乗っ取るべえと思うんだが、なかなか、いい考えは浮かばねえようだ。下手な事をしたら、こっちが潰れちまうから慎重にやらなきゃならねえ。まあ、焦らず、軍師に任せておくべえ。
歳の暮れになって、国超えしていた富五郎と甲斐の新十郎が帰って来たぜ。二人は甲州方面の親分のもとを渡り歩いて修行を積んで来たようだ。得意になって、旅の話をみんなに聞かせてたよ。
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国定忠治の無頼日記43 天保3年(1832)9月~23歳
裏切り者の武士(たけし)村の惣次郎の野郎が伊勢崎の半兵衛親分に殺されちまったんだとよ。
いい気味だぜ。
野郎、調子に乗りやがって、半兵衛親分とこのシマ内で勝手に賭場を開いて、文句を言いに来た半兵衛親分とこの若衆を斬っめえやがった。半兵衛親分は黙っちゃいねえ。惣次郎んとこに殴り込みを掛けて、惣次郎をたたっ斬って、長旅に出ちまったよ。
伊三郎の野郎は半兵衛親分を八州様に訴えて、手配しやがったが、そう簡単に捕まるような親分じゃねえ。まあ、二、三年もすりゃア、戻って来られるだんべ。
何を思ったのか、伊三郎は武士村に代貸を置かねえんだ。境宿を狙ってる伊三郎にとっちゃア、武士村なんかどうでもいいんかもしれねえがよ、いらねえってんなら、こっちで貰ってやろうじゃねえか。
俺ア、文蔵を送り込んで、武士村を取り戻してやったぜ。
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国定忠治の無頼日記42 天保3年(1832)8月~23歳
まったく、今年はどうなっちまったんでえ。
桑が芽吹く頃になってよお、大霜が降りやがって、桑の葉っぱが全滅しやがった。お蚕さんが飼えねえって、村の者たちゃ大騒ぎよ。何とかしてやりてえが、こればっかしは俺にもどうにもできねえや。天に祈るよりほかアなかったぜ。
そしたら今度ア、梅雨になっても、雨がちっとも降りゃしねえ。日照りが毎日続いてよお、米が不作ときやがった。お陰で米の値が上がっちまって、もう少しで、暴動が起こりそうだったぜ。蔵持ちの旦那たちに頼んで、施しをやってもらって、何とか、騒ぎを鎮めたんさ。
養蚕はうまく行かなかったけどよ、絹市の方は盛ったぜ。物価が上がったんで、絹の値も上がって、絹糸の在庫を持っていた奴らは、儲かったって大喜びさ。喜びついでに、賭場に顔を出して遊んでくれるってえ寸法よ。
賭場の稼ぎはまあまあってとこよ。さすがに、女壷振りも飽きられたとみえて、伊三郎んとこの賭場にいたお北もいつしか消えちまった。俺んとこは、お辰が頑張ってやってるぜ。
そう言やア、お江戸の方で鼠小僧の次郎吉ってえ盗っ人が捕まったって噂が流れたっけ。何でも、大名屋敷に忍び込んじゃア銭を盗んで、貧しい者たちに配って歩いたってえじゃねえか。世の中にゃア、面白え奴がいるもんだ。捕まる前に会ってみたかったってえ思ったぜ。
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国定忠治の無頼日記41 天保3年(1832)2月~23歳
円蔵さんの作戦はうまく行ったぜ。
まずは平塚の助八のシマ内の賭場荒らしをしたんさ。小せえ賭場だけどよ、中島の甚助の子分の振りをして、ちょこちょこ荒らし回ったんさ。
助八は甚助を疑ってるようだったが、表立った動きはなかった。失敗したかなって思ってたら、年が明けてから、助八の子分どもが甚助の賭場を荒らし始めたんさ。こいつぁア、まもなく、出入りが始まるに違えねえって見守ってたんだが、なかなか始まらねえ。そこで、ちょっくら、細工をしてやったんさ。
顔の知られていねえ新参者の甲斐の新十郎に曲沢の富五郎を付けて中島に送って、賭場荒らしをしている助八の子分を斬らせたんさ。うまく行ったぜ。助八の子分二人は一刀のもとに斬られ、斬り口があまりにも見事なんで、浪人者の仕業に違えねえって事になったんさ。
島村の伊三郎が十手をかざしてやって来て、助八としても、伊三郎にすべてを任せたんだけどよ、やっぱり、黙っちゃいられねえや。ここで黙って引き下がったら、面目丸つぶれって奴よ。
助八は甚助が浪人者を雇って殺させたに違えねえって、中島に殴り込みを掛けたんさ。甚助を殺した助八は子分を引き連れて、そのまま、国超えしちまったよ。
伊三郎の野郎は怒ったねえ。八州様に訴えて、助八はお尋ね者になって、関東一円に手配書が回ったんさ。可哀想に、当分の間は戻っちゃア来られねえ。
伊三郎は助八の替わりに留五郎を代貸として平塚に入れ、中島は甚助の一の子分だった長平が代貸になったんさ。平塚と中島は依然として伊三郎の支配下にあったけどよ、助八と甚助が消えちまって、いくらか勢力が弱まったってえ訳よ。
俺たちゃ、円蔵さんの事を「軍師」って呼ぶ事に決めたんさ。
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国定忠治の無頼日記40 天保2年(1831)10月~22歳
おりん姉さんが国定村の賭場で壷を振ったら、若え娘っ子が大勢、集まって来やがったぜ。
旦那衆が集まるんは当たりめえだけどよう、娘っ子が集まるたア、まったく、意外な展開だったぜ。
娘たちは粋なおりん姉さんに憧れて、髪形や着物の着方、帯の締め方と何から何まで、おりん姉さんの真似をしてやがる。
おりん姉さんが散歩をすりゃア、同じ格好した娘っ子がぞろぞろと後に付いて行くってわけよ。まったく、面白え眺めだぜ。中にゃア、本気に壷振りになりてえって娘っ子もいたらしいが、おりん姉さんが説得して帰したようだ。
お町の奴まで影響を受けて、おりん姉さんの真似をしてやがる。姉さんから色々と博奕打ちの話を聞いて、いいアネさんになろうと張り切ってるようだ。まあ、頑張ってくんねえってなもんだ。
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国定忠治の無頼日記39 天保2年(1831)10月~22歳
島村の伊三郎んとこに行ってたおりん姉さんが帰って来たんは一年近く経ってからだった。
予定じゃア半年もありゃア、伊三郎の弱みは握れるだんべって思ってたんだけどよお、伊三郎の奴がおりん姉さんを離さなかったらしい。おりん姉さんは伊三郎んとこで、二人の女壷振りを育てて、やっと開放されたってわけさ。
帰って来たおりん姉さんは境宿にいるとうまくねえんで、田部井村の方に隠れたんさ。
おりん姉さんの話だと、伊三郎の奴の弱みは見当たらねえらしい。てめえの手で人を殺した事もねえし、人から恨まれてる事もねえし、利根川で働く船頭や人足たちには信頼されているという。唯一の弱みは女好きで、若え妾が何人もいるらしい。
それとな、島村一家は本家と分家に分かれていて、本家は十手持ちとしての伊三郎の表の顔で、賭場は開いちゃアいねえ。分家ってえのは賭場を開いている九人の代貸たちの事で、まあ、小せえ一家の親分みてえなもんだ。伊三郎は若え者を見張り役として、代貸のもとに派遣してるらしい。
そういう組織ならうまくやりゃア、島村一家を潰す事もできるかもしれねえって、円蔵さんは言ったぜ。
まあ、あせにず、じっくりと腰を落ち着けて、やがては、島村一家をぶっ潰して、伊三郎のシマはすべて百々一家のものにしてやるぜ。
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国定忠治の無頼日記38 文政13年(1830)11月~21歳

おりん姉さんは伊三郎の弱みを探るために、島村一家に草鞋を脱いだんさ。伊三郎の奴、おりん姉さんが壷を振るって聞いて、大喜びで迎えたらしいぜ。おりん姉さんはさっそく、桐屋の賭場で壷を振って、旦那衆を喜ばせたんさ。
百々一家の伊勢屋ではお辰が壷を振って、島村一家の桐屋ではおりんが壷を振って、二人の女壷振りの噂は他国まで知れ渡って、境宿の名物になっちまった。おりんが弁天なら、お辰は吉祥天だって言い出す者が現れて、いつの間にか、吉祥天のお辰ってえ通り名が付いちまったよ。弁天と吉祥天のどっちが勝ったってえ事アなく、どっちの賭場も大賑わいさ。
伊三郎の事はおりん姉さんに任せて、俺たちゃ、堅気の衆をしっかりと味方に付けるために、ちょっとした揉め事が起こりゃア、すぐに飛んで行って解決してやり、村のためになる事にゃア進んで協力したんさ。
うめえ具合に、いつも騒ぎを起こしている文蔵がお辰に夢中になって、つまらねえ喧嘩をしなくなったんは助かったぜ。お辰の方は、おりん姉さんに負けられねえと壷振りに真剣になってるんで、色恋沙汰には興味を示さねえが、文蔵の事を嫌えじゃねえようだ。二人がうまく行ってくれりゃあいいと、俺アひそかに思ってるんさ。
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国定忠治の無頼日記37 文政13年(1830)10月~21歳
嘉藤太んちで暮らしていたお町なんだけどな、嘉藤太んちで賭場が開かれるようになってから居場所がなくなっちまって、近くに空き家があったんで、そっちに移る事になったんさ。
お町の奴、子分たちから、アネサン、アネサンて呼ばれて、結構、いい気分でいるみてえだぜ。子分どもも、お町に頼まれりゃア、ヘイ、ヘイって二つ返事で何でも言う事を聞いてるんさ。
最近、三下奴になった下植木村の浅次郎なんざ、お町お気に入りの使い走りよ。浅次郎の方も槍の稽古に励んで、命に代えてもアネサンは守りますって張り切ってるんさ。まったく、頼もしい奴だぜ。
まあ、こじんまりとしたうちだけどよ、たまに帰って来て、のんびりするには丁度いい塩梅ってもんだ。
おりん姉さんに仕込まれたお辰の壷振りは思った以上にうまく行ってるぜ。伊三郎んとこの賭場は毎日、閑古鳥が鳴いてるよ。
伊三郎の奴、俺たちの真似して、てめえの妾に壷を振らせたんだが、うまくは行かねえ。いくら器量よしでも、修行を積んでねえオナゴじゃ、賭場が締まらねえのよ。これじゃア、まともな勝負はできねえって、いい客にゃア逃げられるし、片肌脱いで片膝立てたオナゴを拝みに来る冷やかし客ばかりが集まって来るしで散々な目に会ったらしいぜ。
伊三郎の奴、どうしたらいいだんべえって頭を抱えて、子分どもに八つ当たりしてるようだ。いい気味ってもんさ。
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国定忠治の無頼日記36 文政13年(1830)10月~21歳
円蔵さんのかみさんの弁天のおりんさんは想像していたよりもずっと別嬪だったぜ。こんな女渡世人がいたなんて、とても信じられねえ。円蔵さんもうまくやったもんだと感心したよ。
円蔵さんの考えで、顔を知られてねえおりんさんを島村の伊三郎んとこに送り込んで、敵の情報をつかもうって事に決まったんだ。おりんさんは子分になったお辰を連れて田部井村に隠れて、お辰に壷振りを仕込んだのさ。
おりんさんにみっちりと仕込まれたお辰は、10月の7日の市日に伊勢屋の賭場で初めて壷を振ったんだ。客たちは女の壷振りに驚いて、あっという間に噂は広まって行った。もう、溢れんばかりの客が次々にやって来て、いつもの倍以上の稼ぎになったんさ。うまく行ったとみんなで大喜びしたぜ。
それから10日後には国定村の赤城神社の秋祭りがあって、そこに出張って賭場を開いたんさ。そこは毎年、久宮一家が賭場を開帳してたんだけどよ、国定村でそんな真似は二度とさせねえ。奴らの殴り込みを覚悟してたんだが、奴らは何も言って来なかった。気負い込んでいたのに、肩透かしを食らわされて、まったく腹立たしかったぜ。
文蔵なんざ、イライラしながら、奴らが来ねえんなら、俺ア帰るぜって、お辰のいる百々村に帰っちまった。見ていておかしくなるほど、文蔵はお辰に首ったけなんさ。
でも、よく考えてみりゃア、久宮一家にとって、国定村の賭場なんざ、小遣い稼ぎみてえなもんだ。血を流してまで、守る程の賭場じゃなかったってえ事よ。まあ、お客さんたちが喜んでくれりゃア、それでいいんだけどよ。
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国定忠治の無頼日記35 文政13年(1830)9月22日~21歳
その日、俺ア隠居した紋次親分とこにいたんさ。そしたら、秀吉の野郎が呼びに来て、行ってみると八寸の才市が、「親分、てえへんだア」って騒いでいやがる。
島村一家が殴り込みに来たんかって聞いてみりゃア、そうじゃなくって、伊勢屋の賭場に女渡世人が来て勝負してるってえじゃねえか。そいつが、目の覚めるようないい女だってえんで、ちょっくら見に行ったんさ。
賭場に入ってみると、確かにいい女が噂通りに片膝を立てて、駒札を張っていたよ。反対側に座っている客たちは勝負どころじゃねえようだ。女渡世人の膝の奥の方にチラチラと目をやっちゃア、額の汗を拭いていやがった。
文蔵が近づいて来て、小声で「あれは使えるぜ」って言ったよ。確かに、円蔵さんが言ってたように、あの女に壷を振らせりゃア、賭場は繁盛するに違えねえって俺も思ったぜ。
女渡世人は一人勝ちして、帰ろうとしたが、俺は声を掛けたんさ。
桐生町のお辰ってえ名乗った女渡世人は、俺の噂を聞いてやって来たんだって言った。俺はすかさず、客人になってくれって頼んだよ。このまま別れちまうには勿体ねえからな。
お辰は百々一家を気に入ってくれて、俺が壷振りの件を頼む前に、子分にしてくれって言ってきたんだ。
嬉しかったねえ。子分たちも大喜びさ。一番喜んだんは文蔵で、がらにもなく照れながら、お辰に一目惚れしたと抜かしやがった。まあ、頑張ってくんねえって言ってやったよ。
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国定忠治の無頼日記34 文政13年(1830)9月19日~21歳
久宮一家の賭場に殴り込みを掛けて、久宮の子分どもを国定村と田部井(ためがい)村から追っ払ってやったぜ。
そして、9月14日、国定村の重兵衛の土蔵ん中で初めての賭場を開いたんだ。
境宿の伊勢屋の賭場が二と七の日なんで、国定村は四の日、田部井村は九の日に開くって決めたんさ。
噂を聞いて、あちこちから旦那衆が集まってくれて、予想以上の賑わいだったぜ。嬉しかったねえ。客が来なかったら、どうすんべえって心配したけど、みんな、俺の事を見捨てちゃいなかった。ほんと、ありがたかったよ。
驚いた事にゃア、お袋がお鶴と一緒に来やがった。博奕は打たなかったけどよ、旦那衆に、俺の事をよろしく頼むって頭を下げて回っていたよ。お袋の出る幕じゃねえって追い返したんだけどよ、ほんとは嬉しかったんさ。
俺が親分になって最初の賭場は大成功さ。19日にゃア、田部井村の嘉藤太んちで開いて、それもまずまずのできだアな。久宮一家も俺様を恐れたのか、邪魔をしにゃア来なかったぜ。
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国定忠治の無頼日記33 文政13年(1830)9月3日~21歳
親分にはなったけどよお、情けねえ事に、子分は七人しかいねえんだ。これじゃア、とっても、やっちゃア行けねえや。まず、頭数をそろえなきゃなんねえ。俺ア、昔の仲間に声を掛けてみたぜ。
ありがてえ事に、国定村の清五郎と次郎、田部井村の又八と曲沢村の富五郎、五目牛村の千代松、この五人が子分になってくれたよ。嘉藤太も子分になるって言ってくれたけど、お町の兄貴を子分にするわけにも行かねえから、兄弟分の盃を交わしたんさ。
客人の円蔵さんも入れて15人になって、さっそく、伊三郎に殴り込みを掛けべえって息巻いたんだけど、円蔵さんに止められちまった。戦に勝つにゃア、まず、敵の事をよく調べなけりゃ駄目だって言うんだ。
それに、真っ先にやる事は客がいなくなっちまった伊勢屋の賭場に客を集める事だって言ったよ。しかも、女子に壷を振らせるなんて言い出したんだぜ。
女渡世人の噂は時々、耳にする事アあっても、今まで見た事アねえ。噂によりゃア、女渡世人てなア、目の覚めるようなベッピンで、片肌脱いで、片ひざ立てて壷を振るという。そんな女壷振りが伊勢屋で壷を振りゃア、客が集まって来るに間違えねえ。旦那衆が鼻の下を伸ばして寄って来るぜ。
でもよお、そんな女が実際にいるなんて信じられなかったよ。ところが、どっこい、円蔵さんのかみさんが女壷振りだってえじゃねえか。たまげたねえ。弁天のおりんて名で、まずまずのベッピンで、今、信州にいるらしい。円蔵さんはさっそく、かみさんを連れて来るって出掛けて行ったよ。
伊三郎の事ア、円蔵さんに任せて、俺たちゃ、国定村と田部井村から久宮一家の奴らを追い出す事に精出したのさ。
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国定忠治の無頼日記32 文政13年(1830)8月吉日~21歳
「何事も初めが肝心だぜ」って円蔵さんが言ったんだ。そして、吉日を選んで跡目相続の襲名披露が派手に行なわれたんだ。
俺のために錚々たる親分が集まってくれたんだぜ。
仲人(ちゅうにん)は前橋の福田屋栄次郎親分がやってくれたんさ。八寸村の七兵衛親分、川田村の源蔵親分、玉村宿の佐重郎親分、伊勢崎の半兵衛親分、大前田村の要吉親分、太田宿の与左衛門親分、大笹宿の寅五郎親分、木崎宿の孝兵衛親分、それに、島村の伊三郎親分も顔を揃えたんだ。
伊三郎を呼ぶんは俺も文蔵兄貴も反対したんだけど、円蔵さんが、「そんなケツの穴の小せえようじゃア、一家を張ったって、すぐに潰れちまう。伊三郎なんか目じゃねえってくれえの太っ腹になれ」って言って、俺たちも納得したんさ。
大前田一家の要吉親分は目が不自由で、めくらの親分て呼ばれてるんだ。俺も噂は聞いていたけど会うのは初めてさ。さすが、栄五郎親分の実の兄貴だけあって、すげえ貫禄だア。ただ、そこにいるってえだけで、誰もが大親分て呼ばずにゃいられねえって雰囲気が漂っていたよ。
話は変わるけど、文蔵兄貴は俺の事を親分て呼ぶんだぜ。兄貴が親分て呼ぶんで、子分たちもみんな、親分て呼んでくれるよ。親分て呼ばれるのは嬉しいけどよお、なんか、照れ臭えや。
集まった親分衆はそれだけじゃねえんだぜ。武州からわざわざ、藤久保の重五郎親分と高萩の万次郎兄貴も来てくれたんだ。残念ながら、栄五郎親分は名古屋の方に行っているらしくて来られなかった。
それと渡世は違うけど、香具師(やし)の萩原村の不流三左衛門親分と館林の江戸屋兵右衛門親分も来てくれたんさ。
境宿の旅籠屋は各地から集まって来た親分衆で埋まって、町中をウロウロしていた伊三郎の子分どもは恐れをなして消えちまったよ。
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国定忠治の無頼日記31 文政13年(1830)8月20日~21歳
倒れた親分のお見舞いに前橋から福田屋栄次郎親分が来てくれたんだ。この前、助けてくれた時に一緒だった代貸らしい男も一緒だった。
お見舞いが済んだ後、俺は栄次郎親分に呼ばれて、この前のお礼を言ったんさ。本名を名乗ったら、栄次郎親分は驚いて、おめえが国定村の忠治だったのかい。噂は兄弟分の栄五郎親分や玉村の佐重郎親分から聞いてるぜって言ったんだ。俺は今までのいきさつを簡単に説明したんさ。
そしたら、栄次郎親分は飛んでもねえ事を言い出したんだ。この俺に、百々一家を立て直してみろってな。そして、栄次郎親分の連れの男が、あっしに手伝わせてくれって言い出した。日光の円蔵って名で、栄次郎親分とこの客人だったんだ。昔、山伏だったんで、兵法とかに詳しいらしい。
よく考えておけって言って、栄次郎親分は帰って行った。
それから一ヶ月経っても、親分の具合はよくならなかった。このままじゃ、うまくねえと、親分の兄弟分の川田村の源蔵親分、八寸村の七兵衛親分、そして、福田屋栄次郎親分が相談して、百々一家の跡目を俺に継がせる事に決めちまったんだ。
俺はまごついたぜ。だって、文蔵兄貴を差し置いて、俺が親分になるわけにゃアいかねえぜ。でもよ、親分たちが文蔵兄貴を説得したらしくて、文蔵兄貴は俺の子分になるって言ってくれたんだ。
うれしかったねえ。俺は引き受ける事にしたよ。日光の円蔵さんが客人として残ってくれたんで、助かったぜ。強え味方ができたって感じよ。
俺たちは一致団結して、改めて、伊三郎と戦う覚悟を決めたんさ。
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国定忠治の無頼日記30 文政13年(1830)7月20日~21歳
代貸の新五郎の兄貴が殺されて、岩吉の野郎が逃げて、百々一家の子分の筆頭は文蔵兄貴になっちまった。
文蔵兄貴の下に俺がいて、保泉の久次郎、茂呂の孫蔵、山王道の民五郎、八寸の才市、富塚の角次郎、そして、三下奴の宇之吉と清蔵だけになっちまったのよ。これじゃア、一つの賭場を開くのがやっとの人数だぜ。とても、殴り込みなんかできやしねえ。
まったく、落ち目になると賭場には客が来ねえし、雲助までもがどっかにずらかっちまったよ。
兄貴が殺されてから三日後だ。伊三郎の奴がでけえ面して来やがった。十手をかざして、新五郎の兄貴をやった奴の目串がついたと抜かしやる。用心棒の浪人者を連れていて、そいつが兄貴をやったに違えねえって思ったけどよ、情けねえ事に、今の俺たちゃ何もできねえ。俺は歯を食いしばりながら、伊三郎の首を後ろからたたっ斬ってやるべえかと思ったぜ。
伊三郎の奴は嘘八百を並べ立てて、帰って行きやがった。親分もよっぽど腹が立ったんだんべえ。塩を撒いとけって大声で怒鳴ったよ。その後がいけねえや。親分が急に倒れちまったんだ。
境宿から蘭方医の村上隋憲先生を呼んで来て診てもらったけど、半身不随になっちまった。しゃべる事もできねえんだ。
畜生め、こんな時、親分が倒れちまうなんて、俺たちもとうとう、お天道様に見放されちまったようだ。文蔵兄貴も気落ちして、百々一家はもう終わりだって、やけ酒をくらってらア。
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国定忠治の無頼日記29 文政13年(1830)7月17日~21歳
今日は市日だってえのに、新五の兄貴が出て来ねえんで、文蔵兄貴と俺は迎えに行ったんさ。
新五の兄貴の女はお仙さんていって、境宿で居酒屋をやってるんさ。ほんとに、色っぺえ、いい女だぜ。
「賭場の事も忘れて、兄貴はお仙さんとしっぽり濡れてるに違えねえぜ」って、俺たちはニヤニヤしながら戸を叩いたんさ。表が閉まってるんで、裏に行って声を掛けたんだが、返事はねえ。
戸を開けて中に入ってみると、うちん中はメチャメチャになっていやがった。シーンと静まり返っていて、人のいる気配はねえけど、何か変な臭いがしたよ。
「こいつアどうなってんだい」って俺が文蔵兄貴に言ったら、兄貴の奴、妙な声を挙げてひっくり返ったんだ。「大変だ」って兄貴の指差す方を見たら、何と、お仙さんが首をくくっていたんだぜ。俺も腰を抜かしそうだっよ。
お仙さんは髪をクシャクシャに乱して、目ん玉が飛び出して、口から血を流していたよ。着ている浴衣はクシャクシャになってはだけて、帯で首を吊っていたんだ。
まったく、ぶったまげたぜ。
部屋の様子から、お仙さんは何者かに手籠めにされたらしい。しかも、何人もの男にやられたようだった。それを知った新五の兄貴は仇を討ちに行き、その後、お仙さんは首をくくったらしい。どこに行っちまったのか、兄貴はいつになっても戻って来ねえんだ。
そして、次の日の朝、世良田のはずれで新五の兄貴の死体が見つかったんだ。
伊三郎の仕業に違えねえって思っても、証拠がねえ。俺たちが殴り込みを掛けべえって言っても、親分は許さなかった。下手に動きゃア、今の百々一家なんか簡単に潰されちまうって言うんだ。
畜生、悔しかったぜ。兄貴やお仙さんの仇も討てねえなんて、情けねえし、はらわたが煮えくり返っていたよ。おまけに、中盆の岩吉はてめえの女を連れて夜逃げしやがった。兄貴の二の舞を踏んで、てめえの女を手籠めにされるのを恐れたに違えねえ。まったく、情けねえ野郎だぜ。
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国定忠治の無頼日記.28 文政13年(1830)6月25日~21歳
新五の兄貴はじっと我慢して、騒ぎを起こすなと言ったが、俺たちゃ我慢なんかしてられなかった。文蔵兄貴と俺は旅人姿になって、伊三郎の賭場を荒らし始めたんだ。
小せえ賭場はうまく行ったんだが、中瀬河岸の賭場に入っちまって、しくじっちまった。思ってたよりでっけえ賭場で、十人余りの旦那衆がいて、盆の上にゃア、漆塗りの上駒がいくつも張られていたよ。ざっと見たところ、二、三十両は動いていたに違えねえぜ。
しまった、と思ったが、もう後の祭りよ。こいつア、ひと暴れしてずらかるしかねえって、文蔵兄貴とうなづき合ったんたがよお、兄貴の奴は、「失礼いたしやした」って頭を下げると一人でさっさと逃げちまったんだぜ。
俺アたまげて、兄貴の後を追おうとしたけど遅かった。若え衆に取り囲まれて、もうどうする事もできねえ。外に放り出されて、メチャメチャに殴られちまったぜ。
どこの野郎だと聞かれたが、俺は本名は名乗らなかった。武州無宿の国次郎って、でまかせを言ったのさ。幸いに俺の顔を知ってる奴がいなかったんで助かったが、筵で簀巻きにされちまったよ。このまま、川に捨てられちまったら、生きちゃアいられねえ。まだ、死にたかアねえって俺アわめいたが、猿轡を噛まされて、何も言うことができなかったんだ。
まったく、情けなかったねえ。死ぬ前に
お町に会いてえって思ったよ。お鶴にも会いてえってな。
でもよお、おてんとさんは俺を見捨てちゃアいなかった。その賭場に大前田の栄五郎親分の兄弟分の福田屋の栄次郎親分がいたんだ。栄次郎親分さんとは面識はなかったんだが、栄次郎親分さんは俺を助けてくれたんだ。栄次郎親分さんには本名を名乗りたかったけど、誰が聞いてるともわからねえんで、俺ア国次郎のままでお礼を言ったのよ。
顔は腫れ上がり、体中が痛くて、とぼとぼ歩いてたら、文蔵兄貴が現れた。俺は文句を言ったが、兄貴は俺を助けるために隠れてたって言うんだ。あん時、二人で長脇差を抜いていたら、二人とも殺されていたぜ。どっちかが逃げて、もう一人を助けるしかなかったって言うんだ。そう言われりゃアそうかもしれねえって思うけどよお、まったく、ひでえ目に会ったぜ。
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国定忠治の無頼日記.27 文政13年(1830)5月11日~21歳
お町と会って、いい気分で帰って来たら、みんながさえねえ面して集まっていたんだ。
何があったんだって三下の清蔵に聞いてみたら、代貸の助次郎兄貴と惣次郎兄貴が裏切って、伊三郎んとこに行っちまったってえじゃねえか。
信じられなかったが、本当だったんだぜ。しかも、その二人は自分の子分たちも引き連れて行っちまったんだ。まあ、たまげたねえ。そんなことが起こるたア夢にも思わなかったぜ。
いつもなら、裏切り者は許せねえって、いきり立っているはずの新五郎兄貴も、これだけの人数じゃアどうしょうもねえって、情けねえ顔をしてたよ。
俺は文蔵兄貴に殴り込みをかけべえって言ったんだけどよお、文蔵兄貴も乗っちゃア来なかった。伊三郎の奴はいつも大勢の子分に囲まれていて手出しができねえって言うんだ。
このままじゃア気が治まらねえ。何とか、仕返しをしなきゃならねえって夜遅くまで考えたんだが、いい考えは浮かばなかったよ。今は敵も警戒してるから、油断するまで待つべえってことになったんさ。
次の日は市日で、伊三郎の子分どもが当然といった顔で境宿にやって来て、大黒屋、佐野屋、桐屋の三ヶ所で賭場を開きやがった。百々一家の賭場は伊勢屋の一ヶ所だけになっちまったんだ。まったく、情けねえこった。
伊三郎の子分どもはでけえ面して境宿を歩いていやがったが、紋次親分の厳命で、俺たちゃ手が出せなかったんだ。騒ぎを起こしたら、縁を切るって言われてたんだ。
はらわたが煮えくり返るほど悔しかったぜ。くそったれが!
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国定忠治の無頼日記.26 文政12年(1829)10月~20歳
柴宿の啓蔵の裏切りがあってから、紋次親分は酒浸りになっちまったんだ。代貸に裏切られたんが、余程、くやしかったんだんべえなア。
俺たちゃ裏切り者は許せねえって殴り込みをかけたんだけどよ、啓蔵の奴は子分を連れて旅に出ちまった。啓蔵のシマにゃア、島村一家の子分どもがでけえ面していやがるんだ。
文蔵兄貴は島村の野郎どもをたたっ斬ってやるべえって息巻いて、俺もそうすべえって賛成したんだ。奴らをたたっ斬って、また旅にでるべえって思ったんだけど、新五郎の兄貴に止められちまった。
そんな事をしたら、伊三郎の思う壺にはまっちまう。待ってましたと伊三郎の奴は十手を持って乗り込んで来て、境宿を乗っ取っちまうだんべえって言うんだ。悔しいけどよお、親分の事を考えて、俺たちもじっと我慢したんさ。
啓蔵の奴はいつになっても帰っちゃア来なかった。
俺たちもいつの間にか、奴らの事ア忘れて、毎日、賭場で壷を振っていたんさ。前よりずっと忙しくなったけど、稼ぎもよくなってな、弟分を引き連れちゃア得意顔で遊び回っていたのよ。
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国定忠治の無頼日記.25 文政12年(1829)10月11日~20歳

境宿の絹糸市は賑やかなんだぜ。市の立つのは二と七の付く日で、その六日間は大忙しさ。
市は上市、中市、下市の三ヶ所で順番にやるんだ。百々一家の賭場も三ヵ所にあって、市のある日は三ヶ所同時に開かれるんだ。俺は文蔵兄貴と一緒に上町にある伊勢屋の賭場にいるんさ。
俺たちゃまだ賭場を開帳する事ア許されちゃアいねえんで、市のねえ日は雲助相手に修行を積んでるんさ。今日も汗臭え人足部屋で壷を振ってたのよ。久次と孫蔵が交替にやって来たんで、俺と文蔵兄貴は1杯ってから女の所に行くべえって、井戸端で顔を洗ってたんさ。
そこに三下奴の清蔵の奴が血相を変えて飛び込んでき来やがった。どっかで、喧嘩でもおっ始まったんかと聞いてみりゃア、代貸の啓蔵兄貴が子分を引き連れて、島村の伊三郎の子分になっちまったってえじゃねえか。俺アたまげたよ。まさか、代貸が裏切って、寝返るたア思ってもいなかったぜ。
裏切り者を許すしちゃおけねえって新五郎の兄貴が殴り込みを掛けるって息巻いて、俺たちも喧嘩支度をしたんだけどよお、親分は許しちゃアくれなかった。
明日は市日だから、啓蔵が預かっていた佐野屋の賭場の後釜を決めるんが先決だって言って、惣次郎の兄貴が代貸に格上げになったんさ。そしてよお、俺が佐野屋で壷を振る事に決まったんだぜ。文蔵兄貴も伊勢屋で壷を振るんさ。
裏切り者は許せねえけどよ、奴らのお陰で、俺たちの格が上がったってえわけよ。嬉しかったねえ。俺たちゃ、その晩、みっちり稽古をしてよ、明日の本番に備えたってわけよ。
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国定忠治の無頼日記.24 文政12年(1829)5月~20歳

あっという間に1年が過ぎちまった。
俺の顔もちったア売れて来たんだぜ。何かが起こりゃア、文蔵兄貴と一緒にすっ飛んで行って解決してやってるんさ。絹市の揉め事や、飲み屋の喧嘩騒ぎ、ゆすりにたかり、下らねえ夫婦喧嘩まで解決してやってるんさ。まあ、それなりの礼金とやらも貰えるんでな、俺たちゃ、すぐに飛んで行くのよ。
文蔵兄貴は相変わらず、木崎宿の女郎屋に通ってるけど、俺ア付き合わなかったよ。何てったって、お町の奴が待っててくれるんだもんな。女郎なんかに用はねえってことよ。
お町は俺が帰ると名主んちから嘉藤太んちにやって来ていたんだけどよお、とうとう、俺と会ってる事がばれちまってな、名主に猛反対されたんだ。以前のお町だったら、名主に逆らえなかったけど、今のお町は昔とは違わア。名主んちを飛び出して、嘉藤太んちに戻って来たんさ。
俺ア暇さえありゃア、お町に会いに飛んで行くのよ。勿論、お鶴んとこにだって、たまにゃア帰るさ。
お鶴はやっぱり、お町の事を知ってたんだ。俺がお町に会った事を知ると泣きながら怒りやがった。でもよお、別れるたア言わなかったよ。
俺はよく考えてみた。お町と一緒になりてえが、お町はおふくろと一緒に養蚕や機織りをやるようなガラじゃねえ。俺としてもそんな事アさせたかねえ。お鶴にはおふくろの面倒を見てもらって、お町には、俺が一家を張った時に、あねさんとして子分たちの面倒を見てもらうべえって思ったんだ。
俺ア二人の機嫌を取りながら、うまくやってるってわけさ。
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国定忠治の無頼日記.23 文政11年(1828)4月~19歳
奥座敷で、しょんぼりと座っていたお町は俺の顔を見ると微かに笑ったよ。娘時代のような派手な着物は着てなかったけど、笑顔は昔のままだったぜ。
俺ア「やあ」と言って、お町の向かいに座ったんさ。なぜか、かしこまっちまったぜ。
お町は三年前より綺麗になっていた。苦労したとみえて、少しやつれたような感じもしたけど、かえって、色っぽくなったように思えたぜ。
一目見た瞬間に、俺ア、もう二度とお町を離したくはねえって思ったんさ。
「お久し振りです」ってお町は言った。
俺アまるでガキの頃に戻ったかのように胸がドキドキしてきやがった。
俺ア思わず、「会いたかったぜ」って言ったよ。
お町は、「バカだったわ。あなたのお嫁さんになってればよかった」って言ったんだ。
俺ア夢を見てる気持ちでお町を見てたよ。そして、「おめえのために、お鶴とは別れる」って言っちまった。素面じゃア照れくせえんで、その後、一緒に酒を飲んだんさ。
いつの間にか、嘉藤太の奴はいなくなっていた。まったく、にくい事をしやがるぜ。
俺たちゃ、離れていた三年間の事を話し合って、その後はお決まりよ。夢のような時を過ごしたんさ。
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国定忠治の無頼日記.22 文政11年(1828)4月~19歳
昔の仲間を集めて、騒ぐんだんべって思ったのによお、嘉藤太んちはやけに静かだったぜ。
あの野郎、うちに寄ってくれって言ったくせに、遊びに行っちまったらしい。
それにしても、荒れ果てていた破れ家が、やけに綺麗になっていやがる。俺が帰って来たら、一家を張れるように直したって、前に富五郎が言ってたけど、どうやら本当らしいや。
留守だと思ってたら、「おう、よく来てくれたなア」って嘉藤太が顔を出したよ。みんなもそのうち集まって来るんだんべえと俺ア上がらせてもらったんさ。
嘉藤太の奴、嬉しそうにベラベラしゃべっていやがった。俺が立派な親分になるに違えねえって言いやがる。まったく、照れるぜ。そしてよお、急にお町の話なんかし出して、もし、お町が離縁して帰って来たらどうするなんて聞きやがるんだ。
そんな事アあるわけねえって俺ア言ったが、嘉藤太はニヤニヤ笑っていやがった。
もしかしてって聞いたら、お町は半年前に帰って来たって言うんだ。
俺アたまげたぜ。お町が戻って来たとは夢にも思わなかった。そういやア、うちを出る時、嘉藤太んちに行くって言ったら、お鶴の奴、行かないでって言いやがった。お町の事を知ってたに違えねえぜ。
嘉藤太の話によると、俺が百々一家の子分になった頃、お町は突然、名主んちに帰って来たらしい。帰って来てからずっと、うちに籠もりっきりで、嘉藤太にも本当の事はわからなかった。名主も世間体があるから、体の具合が悪くなって養生してるって言うだけで会わせてもらえなかったらしい。それが、この間、ひょっこり、嘉藤太んちにやって来て、すべてを打ち明けたんだそうだ。
なんと、離縁した理由は俺の事だってえじゃねえか。お町が俺に会いたくなって、離縁して帰って来たって言うんだぜ。俺ア腰を抜かすくれえにたまげたよ。
「奥の座敷で待ってるぜ」と嘉藤太は言いやがったよ。
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国定忠治の無頼日記.21 文政11年(1828)4月~19歳
旅から帰って来たのは三月も末になっていやがった。
俺の命を狙っていた久宮一家の件はうまくケリが着いてたよ。話を聞いてみりゃア、そいつは俺が殺した奴の兄弟分でも何でもなく、嘘をついていたんだとさ。客人扱いされて、いい気になっていたら、俺が戻って来たもんで、慌てて、どっかに逃げちまったらしい。情けねえ野郎だぜ。
百々一家にも慣れてきた四月の半ば、俺ア半年振りに国定村に帰ったよ。
村に帰る途中、ばったり、嘉藤太に会ったんだ。奴とは年中、喧嘩してたが、久し振りに会うと懐かしく思ったぜ。向こうも同じ思いらしく、俺の顔を見てニコニコしていやがった。
旅の話をちょっと聞かせて別れたんだが、「大事な話があるんだ。後でいいから、うちに来てくれ」って言うんだ。どうせ、昔の仲間を集めて、酒でも飲むんだんべえと思って、うなづいたんさ。嘉藤太は若え頃の原田芳雄さんて感じだアな。
うちに帰ると養蚕が始まっていて、おふくろもお鶴も忙しそうに働いていたよ。二人とも元気そうなんで、俺ア安心したんさ。
おふくろは俺を見つけると裏庭の方に誘って、「とうとう博奕打ちになっちまったねえ」って言ったよ。すまねえって思ったが、もう、どうしょうもねえんだ。
おふくろはお鶴に、俺と別れて実家に帰れって言ったらしい。でも、お鶴の奴は帰らねえで、俺の帰りを待つって言ったんだそうだ。実家の方から、帰って来いって言われても、お鶴は帰らなかった。おふくろは目を潤ませながら、お鶴を泣かせるような事をするんじゃないよって言ったよ。そして、弱い者いじめだけは絶対にするんじゃないよって言った。俺はしっかりと頷いたよ。
お鶴は口を尖らせて怒った顔してやって来たけど、「どこ行ってたのよ、このバカ」って言うと泣き出しちまった。心配させて、すまねえって俺ア、お鶴を抱きしめたぜ。
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国定忠治の無頼日記.20 文政10年(1827)11月~18歳
長岡で合の川政五郎親分とこに草鞋を脱いで、次にゃア、出雲崎の勇次郎親分とこに草鞋を脱いだんさ。
政五郎親分はすげえ貫禄だったぜ。睨まれただけで、縮み上がっちまうくれえ凄みのある大親分さ。俺もあんな風になってみてえって憧れたぜ。
勇次郎親分はまだ若え親分さんで、年上の子分たちを顎で使っていたよ。四年前に亡くなった勇次郎親分の親父さんは越後一の大親分だったらしい。佐渡ヶ島を抜けた大前田の栄五郎親分の面倒を見たのが、親父さんの久左衛門親分だったそうだ。
俺たちゃ、勇次郎親分に客人として大歓迎されたぜ。年上の子分たちに囲まれていて、気楽に話のできる相手がいなかったらしい。俺たちは丁度いい話し相手として迎えられたわけさ。
出雲崎で俺たちゃ初めて海ってえもんを見たんだ。雪が降っていて寒かったなア。冬の海は話に聞いていた青い海と違って、黒くて、波が高くて、毎日、荒れ狂ったようだったぜ。
文蔵兄貴と「すげえ、すげえ」って言いながら、眺めていたんさ。上州の飯盛女は越後から来たのがかなりいて、兄貴の馴染みのおたねも越後の海の近くで育ったんだそうだ。こんなとこで育ちゃア芯の強えおなごにならアって兄貴は言ってたっけ。
海を見たんはいいけどよお、俺たちゃ上州に帰れなくなっちまった。越後と上州の国境は雪で埋まっちまって、慣れねえ奴が旅すると道に迷って凍死しちまうって言うんだ。急いで帰る事もねえんで、雪が溶ける春まで、勇次郎親分とこに世話になる事にしたんさ。
魚はうめえし、酒もうめえ。おまけに、娘っ子は色白のベッピンさんがいっぺえいるのよ。博奕を打って、村娘を口説いて、時には出入りの助っ人をしたりと、結構面白くやってるのさ。
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国定忠治の無頼日記.19 文政10年(1827)10月20日~18歳
文蔵の兄貴と俺は川田村(沼田市)の茗荷松(みょうがまつ)の源蔵親分とこに草鞋を脱いだんさ。
源蔵親分は藤久保の重五郎親分と同じように、相撲取りから博奕打ちの親分になったんだぜ。もと相撲取りだけあって、貫禄のある親分さんだアな。ちょっと、とぼけた所のある面白え親分さんで、おめえさん方にわかるように言やア、『三匹の侍』に出ていた長門勇さんてとこだんべ。古いかもしんねえが、勘弁してくんねえ。
源蔵親分は俺の事をちゃんと知っていたんだぜ。嬉しかったねえ。
よくわかんねえけど、俺の事ア、渡世うちじゃア、評判になってるらしい。大前田の栄五郎親分さんに匿われていたって言ったら、てえしたもんだねえって感心してたっけ。
源蔵親分は俺たちを客人扱いしてくれて、居心地はよかったけど、俺たちゃ今度の旅で、どうしても、海っちゅうもんが見たかったんだ。なんせ、上州にゃア海がねえ。話に聞く、でっけえ海ってえもんを拝んでみたかったのよ。それで、雪が降るめえに、越後に行く事に決めたんさ。
越後に行くって言ったら、源蔵親分は、長岡にいる合の川政五郎親分宛ての紹介状を書いてくれたんだ。俺たちゃ知らなかったけど、政五郎親分は上州は邑楽郡(おうらごおり)の生まれで、旅から旅へと流れ歩いて男を売って来た大親分らしい。
俺たちゃ、源蔵親分に礼を言って、さらに北へと足を伸ばしたんさ。
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国定忠治の無頼日記.18 文政10年(1827)10月16日
いやア、まいったねえ。木崎宿でいい思いをした次の日の昼頃、文蔵兄貴と一緒に帰ったら、親分にこっぴどく怒られちまった。
まあ、親分は「若えうちは羽目をはずしたくなるもんさ」って太っ腹だったけど、代貸の助次郎兄貴はおっかねえ顔して怒鳴りやがったよ。みんなに挨拶もしねえうちから、遊び歩いていた俺が悪いんだから、素直に謝ったのさ。
そしたら、島村一家の子分が、俺の事を捜し回ってるらしくて、しばらく、旅に出てくれって言うんだ。久宮一家に俺が殺した奴の兄弟分が草鞋を脱いでいて、俺を仇と狙ってるらしい。
島村一家と久宮一家はつながっていて、島村の伊三郎親分は俺をだしに騒ぎを起こして、境宿を乗っ取ろうとたくらんでいるって言うんだ。下手な騒ぎを起こしちゃならねえって、俺はしばらく身を隠す事になっちまった。
文蔵の兄貴も年中、島村一家のシマ(縄張り)で賭場荒らしをしてるんで、一緒に旅に出ろって言われたんだ。俺ひとりだったら心細えけど、兄貴が一緒なら面白え旅になりそうだと、俺たちは顔を見合わせてニヤリと笑ったんさ。
縞の合羽に三度笠、長脇差を腰に差して、俺たちゃウキウキしながら、からっ風の吹く中を北へと向かったぜ。道中、何が起こるがお楽しみってわけさ。木枯し紋次郎じゃねえが、どこかで誰かが、きっと待っていてくれるって感じだぜ。
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国定忠治の無頼日記.17 文政10年(1827)10月15日~18歳
久次郎が俺の事を三ツ木の文蔵兄貴に紹介したら、「ほう、おめえが国定村の忠治かい。前から会ってみてえって思ってたんだ。まずは、兄弟分の盃を交わそうじゃねえか」って俺を居酒屋に連れてってくれたんだ。
昼真っから酒を飲みながら、兄貴は色んな事を教えてくれたよ。その後、平塚まで行って、素人衆がやってる賭場を荒らして、銭を巻き上げたんだ。
まったく、兄貴のやる事ア、ムチャクチャだぜ。
島村一家の縄張りに乗り込んで、島村一家の子分に成りすまして、「島村の親分の許しを得て博奕を打ってんのか」って、脅して銭を巻き上げたんだ。親分や兄貴たちには内緒で、ちょくちょくやってるらしい。
兄貴の話によると、島村の伊三郎親分は百々一家の縄張りの境宿を狙ってるんだそうだ。伊三郎は十手(じって)を持っていて、そいつをチラつかせて、どんどん縄張りを広げてるらしい。
二足の草鞋(わらじ)を履いてる奴は裏できったねえ事をしてるに決まってらア。そんな奴をのさばらしておくわけにゃア行かねえんだ、って兄貴は息巻いてたよ。
巻き上げた銭で、木崎宿に繰り出して、飯盛(めしもり)女のいる旅籠屋に上がったんだ。兄貴は馴染みのおたねってえ娘がいて、俺の相方はお寅って娘だった。名前は勇ましいが、あどけねえ顔をした可愛い娘だったぜ。
俺も何度か木崎で飯盛女を揚げた事アあったが、いつも厚化粧にごまかされて、朝になったらガッカリしたもんだが、お寅はほんとに可愛い娘だったぜ。兄貴のお陰でいい娘に巡り会えたと喜んだんさ。
巻き上げた銭を全部使って、その夜はドンチャン騒ぎよ。いい兄貴にめぐり会えてよかったって、俺アしんから思ったぜ。文蔵兄貴は若え頃の菅原文太さんてとこだんべ。
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国定忠治の無頼日記.16 文政10年(1827)10月15日~18歳
保泉(ほずみ)の久次郎って子分がいてよお、俺の事を兄貴って呼んで、色々と教えてくれたぜ。
渡世人の世界じゃ、先に子分になった方が兄貴分なんだが、俺の方が年上だし、貫禄があるからって聞かねえんだ。まあ、兄貴って呼ばれるのも悪かねえから、久次郎の言う通りにしたんさ。久次郎は若え頃の岩城滉一さんみてえな感じの、なかなかのいい男だぜ。
久次郎の話によると、百々一家の縄張りは、日光例幣使(れいへいし)街道の柴宿から境宿までで、街道筋にいくつも賭場を持ってるという。
紋次親分の下に、木島の助次郎、境の新五郎、柴の啓蔵ってえ3人の代貸(だいがし)がいて、百々一家の三人衆って呼ばれてるんだそうだ。その下に、武士(たけし)の惣次郎、馬見塚(まみづか)の佐太郎、矢島の周吉という3人の中盆(なかぼん)がいる。
代貸ってなア、賭場で親分(貸元)の代理を務める者で、中盆てなア、掛け金を仕切る事のできて、時には壷を振る事もあるんだ。その下に、出方(でかた)って呼ばれる若え衆が、俺も入れて12人、その下に三下奴が6人いるらしい。
百々一家に隣接して、東に木崎一家、西に玉村一家、南に島村一家、北に伊勢崎一家があってな、玉村一家の佐重郎親分と伊勢崎一家の半兵衛親分は栄五郎親分の兄弟分なんだ。それでもって、木崎一家の孝兵衛親分と島村一家の伊三郎親分は兄弟分なんだそうだ。
久次郎の案内で、まず、境宿を見て回ったよ。
西の丁切(木戸)を抜けると、すぐ左手に「伊勢屋」ってえ煮売茶屋があってな、市のある日に、そこの二階で賭場が開かれるそうだ。伊勢屋の隣に髪結い床があって、百々一家の連中が世話になってるらしい。
しばらく行くと右側に本陣がある。街道の両側には居酒屋、煙草屋、菓子屋、荒物屋、酒屋、太物屋、質屋などが並んでいて、宿場の中央に高札場と市場の神様を祀る石宮があった。
その先にも商店がずらりと並んでいて、けっこう面白そうなとこだって思ったぜ。
大間々へと向かう道の角に「桐屋」ってえ料理屋があった。桐屋の二階じゃア市日以外の日で、賭場を開いてるという。
桐屋の前に三人の若え者が座り込んで話をしていたよ。久次郎が、文蔵の兄貴って声を掛けたら、鋭え目つきの男が俺をジロリと見やがった。俺も負けるもんかと睨んでやったよ。
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国定忠治の無頼日記.15 文政10年(1827)10月15日~18歳
おひけえなすって‥‥‥て万次郎の兄貴から教わった通りに仁義を切ってやったぜ。
応対に出てきた紋次親分の子分は最初、俺を見て三下奴かって見下したような面をしていやがった。
俺が、国定村の忠次郎だって名乗ったら、目を見開いてたまげてやがったぜ。
さらに、栄五郎親分の添え状を見せたら、急にかしこまって、丁寧な態度で、俺を上げてくれたんさ。
さすがだねえ、栄五郎親分の御威光は大したもんだ。
客間に通されて待っていたら、さっきの子分がやって来て、紋次親分とこに連れて行ってくれた。
親分はでっけえ水墨画を背に、長火鉢を前にでんと座っていた。
栄五郎親分の兄弟分だけあって、貫禄のある親分だったぜ。一目見て、この親分なら子分になってもいいだんべえって思ったんさ。
隣に代貸(だいがし)らしい男が座っていて、「おめえが、噂の忠治かい」って聞いて来たぜ。
俺も有名になったもんだって嬉しかったけどよ、軽く見られねえように、そんな素振りは見せねえで、渋い声で、「へい」って言ったんさ。
紋次親分は、「大前田の兄弟は元気だったかい」って聞いて来た。
俺は言葉少なに、「お達者でした」って答えたよ。
親分はうなづいて、「兄弟に頼まれちゃア、いやとは言えねえや。藤久保で三下修行をやったようだし、仁義の切り方も作法にかなってる。子分にしてやってもいいぜ」って言ったんだ。
俺アすぐに子分の盃を頂戴したぜ。
これで、俺も一端の渡世人よ。もう、後戻りはできねえ。
斬った張ったの博奕渡世で、のし上がって行くしかねえのさ。
今に見ていやがれ!って俺ア心ん中で覚悟を決めたぜ。
紋次親分はどんな感じってか、そうだなア、ちっと古いが宍戸錠さんてとこだんべえ。
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国定忠治の無頼日記.14 文政10年(1827)10月15日~18歳
百々(どうどう)村ってなア、国定村の南、2里半(約10キロ)ぐれえんとこにあってな、絹糸市で栄えてている境(さかい)の宿場のすぐ東隣の村なんだ。
百々村の紋次親分と言やア、境宿を仕切っている親分だって事ア知っちゃアいるが、あまりよく知らねえんだ。でもよお、栄五郎親分の兄弟分て言うからにゃア、大した親分なんだんべえ。
とりあえずは、紋次親分のとこで修行を積んで、俺ア一家を張る事に決めたぜ。久宮一家の奴らを国定と田部井から追い出さなきゃならねえからな。
木島村まで来た時、ふと、お町の事を思い出しちまったぜ。
嫁に行っちまってから、すっかり、忘れてたのによお、お町の顔が急に、はっきりと瞼に浮かびやがった。
百々村とお町のいる伊与久(いよく)村は1里と離れちゃアいねえ。もしかしたら、どっかで出会うかもしれねえ。
嫁に行ってから、もう2年半にもなる。
お町の奴、相変わらず、いい女だんべか‥‥‥ばったり出合ったらどうすんべえ。
俺アしばらく、からっ風の吹く中、ボケッと立ち尽くしていたぜ。
「馬鹿野郎、何を考えているんでえ」
俺アお町の未練を吹っ切って、百々村を目指したんさ。
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国定忠治の無頼日記.13 文政10年(1827)秋~18歳
一年振りの国定村は随分と変わっていやがったぜ。
三室の勘助ってえ、俺たちの兄貴分がいたんだが、なんと、堅気になって代官所に勤めてるたア、おったまげたねえ。
俺が故郷(くに)を出た頃、兄貴は一家を張るって言ってたんだ。清五郎や富五郎の奴らは兄貴の子分になったんだが、情けねえって盃を突っ返したってえじゃねえか。
俺が久宮(くぐう)一家の客人を殺した後、久宮一家の連中が田部井(ためがい)や国定にやって来て、俺を捜し回っていたらしい。勘助の兄貴は俺をかばうわけでもなく、俺なんか知らねえって、三室に帰っちまったんだそうだ。
今じゃア、久宮一家が国定までのさばって来て、でけえ面して賭場(とば)を開いているという。
清五と富五は俺が栄五郎親分の子分になって、一家を張るために戻って来たと勘違えしていやがった。
俺の姿をジロジロ見て、貫禄を上げたなアって言いやがった。まア俺もそれなりの修行をして来たからな、まだ貫禄があるたア思えねえが、嬉しかったよ。
そしてな、俺に久宮一家の野郎どもを国定と田部井から追い出してくれって、真面目な面して言いやがるんだ。千代松も、お町の兄貴の嘉藤太も俺の子分になるなんて言っていやがる。
まったく、どうなっちまったんでえ。
みんなから、そう頼りにされちゃア、いやとは言えねえやな。
俺はもうちっと待ってくれって言ったよ。栄五郎親分さんに言われたように、百々(どうどう)村の紋次親分とこで修行を積んでから一家を張るから、待ってろって言っちまったぜ。
俺ア二人に手を振って、真っすぐに百々村に向かったんさ
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国定忠治の無頼日記.12 文政10年(1827)秋~18歳
やっと、うちに帰って来たんだけどよお、やっぱり、敷居が高えや。
俺アわざと何でもねえような振りをして、「腹、減ったぜ」と言いながら、お勝手に入って行ったのさ。
お袋とお鶴が飯の支度をしていたよ。
俺の顔を見て、二人とも鳩が豆鉄砲くらったような面をしていたよ。
二人の顔を見たら、胸が熱くなって来てな、目が潤んできやがった。
「今、帰ったぜ」って俺は笑ってごまかしたんさ。
お袋の奴、俺の顔を見つめたまま涙を拭いて、「よう帰って来た」って何度も何度も言っていた。
「お父に知らせてやんべえ」って仏壇の方に向かった時、やけに小さくなっちまったなあって思ったぜ。
苦労をかけて、すまなかったって俺ア心の中で詫びたんさ。
お袋がいなくなったら、お鶴が、「何で、あんな事をしちゃったのよ」って泣き出しやがった。
お鶴も少しやつれたように見えたが、やっぱり、いい女だったよ。
俺ア思わず、お鶴を抱きしめたのさ。
一年振りのお鶴はやけに優しかったぜ。帰って来て、本当によかったって実感したねえ。
その夜、お鶴を抱きながら、もう二度とお鶴を離さねえって誓ったんさ。そして、お鶴のために、堅気に戻って、やり直してみようって俺ア考え直したぜ。
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国定忠治の無頼日記.11 文政10年(1827)秋~18歳
月日の経つのは早えもんだ。
桜の花も散って、暑い夏も過ぎ、いつの間にか、葉っぱが色づき始めて来ているぜ。
誰が見ても、俺アもう、いっちょめえの渡世人て感じさ。
万次郎の兄貴はまだ独り者なんだが、村の娘たちにゃア人気があるんだ。娘たちが、親分を見るとキャーキャー騒いでいるんさ。俺の事も噂になってるらしくて、俺も騒がれるんだぜ。
村祭んとき、俺もおマユってえ名の可愛い娘とちょくら、いい仲になったんさ。親が博奕打ちなんかと付き合うのを反対してるんで、内緒の仲なんだけどよ、可愛い娘よ。ちょっと、見てやってくんねえ。
故郷を出てから丁度、一年になる頃、高萩村に栄五郎親分がやって来たんだ。
いい知らせを持って来たんに違えねえたア思ったが、また、堅気に戻れって言われるかもしれねえとも思ったさ。でもよお、もう後戻りはできねえ。何と言われようとも、俺ははっきり、博奕打ちになるって言うつもりさ。
栄五郎親分に呼ばれて、「おめえ、本気なのかい」ってドスのきいた声で聞かれた時は、冷や汗が流れたけどよ、俺は目をそらさねえで、はっきりとうなづいたんさ。
怒鳴られるかと思ったけど、親分は苦笑しながら、「しょうがねえ野郎だ」っ言ったよ。
俺ア、駄目でもともだって思って、もう一度、親分に、子分にしてくだせえって頼んでみたんだ。
やっぱり、断られちまった。でもよお、親分の弟分の紋次親分が、境宿の隣の百々(どうどう)村で一家を張ってるから、そこで修行を積めって言ってくれたんさ。
それに、玉村の親分から知らせが届いて、もう故郷に帰っても大丈夫だって言ったんだよ。
嬉しかったねえ。ようやく、帰れるんだぜ。
栄五郎親分は紋次親分あての紹介状も書いてくれた。万次郎の弟分が三下奴になるわけにもいくめえからって、三下修行なしで子分になれるように書いてくれたんだ。
万次郎の兄貴に恥をかかせねえように、それに、栄五郎親分にも恥をかかさねえように、俺ア博奕渡世に命を懸けるぜ。
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親分ちは広え敷地を持っていて、でっけえ母屋の裏にゃア、蔵がいくつも建っているんさ。
子分たちもみんな若えし、偉そうな面をした子分なんかいやしねえ。みんな、和気あいあいとしてるんさ。
俺のヤットウ(剣術)だって、捨てたもんじゃねえぜ。栄五郎親分に簡単にあしらわれてから、ちっとばかし、自信をなくしてたんだが、ここの子分衆たちにゃア、立派に通用すらアな。万次郎親分も思っていたよりも、俺が強えって喜んでくれたんさ。
驚くなよ。俺ア、万次郎親分と兄弟分の盃を交わしたんだぜ。
万次郎親分は重五郎親分の弟分だ。それでもって、重五郎親分は栄五郎親分の弟分だ。万次郎親分の弟分になった俺ア、栄五郎親分の弟分て事にならアな。もう三下なんかじゃねえってこった。
それによお、俺ア、栄五郎親分の子分にゃアなれなかったが、栄五郎親分の側にずっといた俺は、ひと様から見りゃア、子分のように見えたって万次郎親分は言ったよ。成程、そういうもんかって思ったねえ。
万次郎親分は、「俺は武州一の親分になってやるからよお、上州の事ア、おめえに任せたぜ」と俺に言うんだ。
弟分になったからにゃア、やらなきゃならねえ。故郷に帰ったら、立派な親分になってみせるぜ。
俺が習った念流ってえ剣術は、おめえさん方の時代にもちゃんと残ってるんだぜ。この写真は群馬県吉井町に代々伝わって来た馬庭念流の打ち合いさ。
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国定忠治の無頼日記.9 文政10年(1827)正月~18歳
年が明けて、十八になっちまったぜ。
十八になって三下たア、情ねえ。しかしよお、我慢しなきゃアならねえんだ。栄五郎親分の盃を貰うまでは、故郷(くに)にゃア帰れねえ。
正月は忙しかったぜ。あちこちから親分衆や旦那衆が挨拶にやって来て、まったく、てんてこ舞いよ。
さすが、栄五郎親分は凄えねえ。みんな、親分にペコペコ頭を下げていらアな。親分は旅の途中だから、大げさに騒ぐなって言うが、みんなが黙っちゃアいねえ。親分さんの噂を聞いて、遠くの方からも続々と挨拶に来らア。そん中に高萩村から来た万次郎って親分がいたんだ。
親分と言っても、まだ若え。噂じゃア、重五郎親分の弟分で、二十三になったばかりだという。背がやたら高くて、若えわりにゃア貫禄があったねえ。俺もあんな親分になりてえって、陰ながら見てたんさ。
その万次郎親分を木賃宿に案内した後、俺ア、万次郎親分に呼ばれたんさ。
お園さんは、「なにか粗相でもしたんかい」って心配顔で聞いて来た。万次郎親分を怒らせると手が付けられないから、何を言われても謝るんだよって言うんだ。
俺ア覚悟を決めて、恐る恐る部屋を訪ねたんさ。
万次郎親分はやけに長え煙管をくわえながら、機嫌よく迎えてくれた。俺はホッとしたぜ。
「おめえの噂は聞いてるよ」って万次郎親分は言った。そして、いつまでも三下なんかやってるガラじゃアあるめえ、俺んとこに来ねえかって言うんだ。しかも、客分として迎えるって言うんだ。
俺ア耳を疑ったぜ。からかってるのかと思ったが、そうじゃなかった。高萩村に剣術道場がねえから、若い者に剣術を教えてやってくれって言うんだ。
こん時ほど、剣術をやっていてよかったって思ったことアねえ。俺ア二つ返事で引き受けたぜ。
万次郎親分てなア、どんな親分さんかって言うと、松田優作さんみてえな感じさ。
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国定忠治の無頼日記.8 文政9年冬~17歳
三下修行は思っていたよりも厳しいぜ。
薄暗え狭え部屋に押し込められて、火もねえ寒い中、五人の三下と一緒に雑魚寝さ。
朝はまだ暗えうちから叩き起こされ、子分たちに怒鳴られながら、夜遅くまでこき使われるんだ。
俺ア知らなかったが、三下奴ってなア、博奕打ちの世界じゃ人間として扱われねえんだ。
飯だけは食わせて貰えるが、銭は一銭も貰えねえ。
銭がねえから遊びもできねえし、酒も飲めねえ。
もっとも、次から次へと、あれやれ、これやれって子分どもがうるせえから、そんな暇なんかねえけどな。
まったく、寝る事だけだぜ、楽しみっていやア。
畜生、お鶴の奴が懐かしいぜ。早く会いてえよ。
栄五郎親分の話じゃ、来年の夏頃にゃア国定村に帰っても大丈夫だんべっ言ってたけど、来年の夏といったら、まだまだ先の話だ。
こんな事なら三下になんかならねえで、栄五郎親分の客分でいた方がずっと、ずっとよかったさ。
でもよお、子分になるために必死に頑張っている三下どもを見てるとな、俺も奴らにゃ負けるわけにゃアいかねえって思うんさ。
こんな事でくじけちまったら、この世界じゃ生きちゃア行けねえからな。
栄五郎親分から盃を貰うまでは、歯を食いしばって、じっと我慢するしかねえのよ。
それにしても、万吉って野郎は頭に来るぜ。アネさんの弟だからって、でけえ面しやがって。
今にみていやがれ。必ず、土下座させてやるからな。
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国定忠治の無頼日記.7 文政9年冬~17歳
俺ア覚悟を決めて栄五郎親分に、子分にしてくれって頼んだぜ。
盃を貰えると思ったのによお、断られちまったよ。
俺を助けるために、田部井村の名主と本間道場の先生と玉村の親分が苦労してくれて、何とか、捕まらずにすむらしいんだ。
おふくろもかなりの銭を使ったらしい。
みんなが俺のために苦労してんのは、俺を堅気に戻すためだって言うんだ。
みんなのためにも、もう一度やりなおして、まっとうな生き方をしろ。博奕打ちなんかになろうなんて思うなよって言われちまったよ。
でもよお、俺ア、栄五郎親分の任侠気(おとこぎ)に惚れちまったのよ。
栄五郎親分は30半ばの男盛りで、おめえさん方の時代で言やア、高倉健さんてことだんべえな。
俺もあんな親分になるって決めたのさ。
俺は諦めねえよ。
俺ア重五郎親分に子分にしてくれって頼んだぜ。
重五郎親分は子分にしてやってもいいが、栄五郎親分の許しがなきゃダメだって言うんだ。
俺アもう勝手に修行する事に決めて、三下奴(さんしたやっこ)たちと一緒に働く事にしたんさ。
三下奴たちは驚いていたぜ。俺の事を勝手に、大前田一家の身内だと勘違えしていやがった。
栄五郎親分に怒られると思ったが、親分は何も言わなかった。しょうがねえ野郎だと思ってるに違えねえ。
しばらくして、重五郎親分に呼ばれて、俺の事を預かる事に決まったって言われた。
子分になれるのかと思ったら、子分になるにゃア、三下奴を一年から二年はしなきゃアならねえって言われたよ。しかも、一番下っ端の三下奴だとよ。それでもいいなら修行させてやるって言うんだ。
俺ア考えたけど、しょうがねえって思ったんさ。下っ端からのし上がっていくしかねえってな。
俺ア三下奴になる事に決めたぜ。
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国定忠治の無頼日記.6 文政9年冬~17歳
流れ流れて、俺ア今、武州の藤久保村にいるのよ。
玉村の佐重郎親分が、ほとぼりが冷めるまで、上州から離れていた方がいいって言って、大前田の栄五郎親分あての紹介状を書いてくれたんさ。
栄五郎親分は佐渡ケ島に送られたんだけどよお、なんと、島抜けして、藤久保の獅子ケ嶽の重五郎親分とこに隠れていたんだぜ。
栄五郎親分の噂は色々と聞いちゃアいたが、さすがに、貫禄のある親分さんよ。
栄五郎親分は八年前に、久宮(くぐう)の親分を殺して、長旅に出てたんだけどよ、江戸にいたところを無宿狩りに捕まって、佐渡に送られちまったんだ。
あの島を抜けるんは無理だって言われてるんだが、親分は見事に島抜けをやっちまった。
大したお人だよ。
俺ア、栄五郎親分の連れって形で、重五郎親分がやってる木賃宿に滞在する事になったんさ。
重五郎親分のおかみさんはお園さんていって、やさしい顔をしていながら、子分たちを顎で使っているんさ。気の強え女だけど、ほっそりとした、とびきりの美人よ。
俺ア、何もしねえでいるわけにもいかねえから、お園さんの手伝えをしていたんさ。
ある日、お園さんから、おまえさんも栄五郎親分の盃が欲しくてやって来たのかいって聞かれたんだ。
俺アそんな事ア思ってもいなかった。
ほとぼりが冷めたら、上州に戻って、剣術道場をやるべえって思ってたんだ。
でもよお、お園さんが言うには、たとえ、相手が無宿者でも人を殺しちまったら、もう堅気にゃ戻れねえって言うんだ。
世間はそんなに甘かアないよ、真面目に生きようとしても、凶状持ちってえのは消えないよ、人様に後ろ指さされながら、堅気でいるより、博奕打ちの渡世で生きた方がいいんじゃないのかって言うんだ。
栄五郎親分から盃を貰えば一家を張れるとも言ったぜ。
よく考えてみたら、お園さんの言う通りのような気がして来たんさ。
今頃、国定村や田部井村じゃア、俺が人を殺したって事ア、誰もが知ってるに違えねえ。
俺ア、もう一度、これからの事を考え直さなきゃならねえって思い始めたぜ。
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国定忠治の無頼日記.5 文政9年(1826)秋~17歳
本間道場の先生の紹介で、俺ア今、玉村宿の佐重郎親分とこにいるんさ。
佐重郎親分の名前は聞いていたが、会うのは初めてさ。でもよお、親分は俺の親父の事をよく知っていて、親父に借りがあったんだが返せなかったって言っていた。
無宿者なんか殺したって、何とでもならア。俺に任せときねえと力強く言ってくれたぜ。頼もしかったねえ。
佐重郎親分は角万(かくばん)屋ってえ旅籠屋をやっていて、十手も持っていた。八州様の道案内を務めてるんだそうだ。
博奕打ちの親分が、博奕打ちを取り締まる八州様の手先をしてるなんて、俺にゃアよくわかんねえが、佐重郎親分は信頼できる親分だと俺ア思ったぜ。十手を見せられた時は、俺を捕めえるつもりかと疑ったが、そんな事アなく、俺は大歓迎された。
夕飯の時なんざ、綺麗どころが3人も出てきて、俺の相手をしてくれたんだぜ。親分とこには飯盛女ってえのが何人もいて、そん中でも上等なのが3人出てきたらしい。
目移りするほど、3人ともいい女よ。
ここに来るまでは、捕まったらどうすんべえ、江戸に送られて首をはねらちまうかもしんねえってビクビクしてたんだがよお、そんな事アすっかり忘れて、俺ア殿様にでもなったような気分で騒いだんさ。
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国定忠治の無頼日記.4 文政9年(1826)秋~17歳
畜生、やっちまったぜ。
お鶴の奴と喧嘩して、ムシャクシャしながら、うちを出たんだ。
自然と足は隣村の嘉藤太んちに向かってたぜ。奴にゃア、会いたかねえが、久し振りに博奕を打って気晴らししようって思ったんだ。
意気込んで行ったんだが、賭場が開かれてる様子はねえ。やけに静かだったぜ。十歳位のガキが留守番していて、嘉藤太は草津の湯に遊びに行ったと抜かしやがった。
まったく、いい気なもんだぜ。
仕方がねえからよ、又八んちに行って、酒でも食らったのよ。
酒飲みゃ、出て来るのはお鶴に対する愚痴だア。又八相手にお鶴の悪口言ってたら、表がやけに騒がしくなって来やがった。
又八を見にやったら、名主んちに3人のならず者が押し入って、佐与松の野郎が斬られたってえじゃねえか。
俺ア、カアッとなってな、又八から長脇差(ながどす)を借りるとすっ飛んで行ったのよ。
名主んちの前は野次馬がいっぺえいやがった。又八が見物人を押し分けて、俺は庭に入った。
血の跡があったが、佐与松の姿はなかった。
縁側に遊び人風の男が3人いて、名主が頭を下げていやがった。
俺は構わず、奴らに近づいて行ったんだ。
こっちから声を掛けたのか、向こうから掛けて来たのか覚えちゃいねえ。
相手の長脇差が頭上できらめいて、斬られると感じ、必死になって斬りかかって行ったような気がする。
グサッという鈍い音がして、奇妙なうめき声がして、あったけえもんが顔に掛かって来た。まるで、「椿三十郎」みてえに、血が吹き出しやがった。
「やめろ!」って誰かが叫んでいて、その声で我に返ったら、手に持った長脇差は血で真っ赤に染まってたんさ。
なぜか、本間道場の師範代が側にいて、いつの間に逃げたのか、血を出して倒れている奴の仲間はいなかった。
倒れている野郎は白目を剥いて死んでいやがったよ。
大変な事をしちまったって思ったが、もう後戻りはできねえ。
俺ア、人を殺しちまったんだ。
見物人はいっぺえいるし、逃げる事もできねえ。
まったく、どうしたらいいのかわからなかったぜ。
師範代がとりあえず、本間道場に行って隠れてろって言うんで、言われる通りにしたよ。
畜生、どうして、こんなふうになっちまったんでえ。
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国定忠治の無頼日記.3 文政9年(1826)春~17歳
お鶴の奴、最近、やたらと姉さん風を吹かしやがる。
嫁に来て半年が経って、おふくろとうまくやってるのはいいがよお、朝から晩まで働き詰めで、俺をのけ者にしやがる。
俺の顔を見りゃア、まだ免許は貰えないの、早く取ってよと言いやがる。
そう簡単に、剣術の免許なんか取れるかってんだ。
俺だって、最近は博奕(ばくち)もしねえで、剣術に打ち込んでるんだ。早く、道場を開きてえって思ってな。
一緒に道場に通ってる千代松なんざ、俺と会ってもそっぽを向いて、俺が嫁を貰ったら腑抜けになっちまったって陰口をたたいていやがる。奴は今、八寸(はちす)村の七兵衛親分の所に出入りしてるらしい。
俺だって、たまにゃア、博奕ぐれえ打ちてえぜ。それをじっと我慢してるってえのによ、あの言い草はねえだんべ。
どっかに遊びに行こうぜって誘っても、お鶴の奴ア、忙しくて、そんな暇なんてないわよ、って言いやがる。
まったく、面白くもねえ。
でもよお、あっちの方はうまく行ってるんだぜ。お鶴の奴、着痩せして細く見えるんだが、結構、いい体してるんだぜ。
人様に見せるようなもんじゃねえが、ちょっとだけ、拝ませてやらア。
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国定忠治の無頼日記.2 文政8年(1825)秋~16歳
お町の事ア、男らしく、きっぱりと諦めたぜ。
塾の先生んとこに嫁に行ったお町を見返してやるわけでもねえが、俺ア剣術道場の道場主になってやろうと思ってな、免許を取るために本間道場に真面目に通って、剣術修行に打ち込んでいたのさ。
それでよお、秋になって、俺ア嫁を貰ったぜ。
まだ、祝言挙げるなんざ、早えたア思ったが、親父が6年前に亡くなっちまって、おふくろが一人で頑張っていたからな、俺が嫁を貰って、働き手を増やさなくちゃならなかったんさ。
俺んちは国定村でも裕福な方でな、小作人を何人も使って、お蚕(かいこ)さんをやっているんさ。
何でも、昔アお侍だったらしい。詳しい事ア知らねえが、新田義貞の家来たちが、この辺りに土着したんだそうだ。
そんな事アどうでもいいんだが、俺が遊んでばかりいるんで、おふくろが一人で小作人たちの指図をしてるんさ。
嫁が来りゃア、おふくろも、ちったア楽になるだんべと俺も嫁っこを貰う事に決めたのよ。
今井村から嫁いで来た嫁は、お鶴といってな、俺より二つも年上なんさ。
お町のような華やかさってもんはねえが、おしとやかなお嬢さんて感じで、今井村じゃア、小町って呼ばれていた程のベッピンよ。
あっしも夢中になっちまったぜ。お町の事なんざ、すっかり、忘れて、毎晩、お楽しみってとこよ。
まあ、絵に描いたら、こんな感じだんべ。
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国定忠治の無頼日記.1 文政8年(1825)春~16歳
あっしの名めえは長岡忠次郎と申しやす。
人様は国定村のワルガキ忠治と呼んでおりやす。
日記なんざ、書くガラじゃねえが、長え月日が経つうちにゃア、あっしの事も忘れられちまうんで、ちょっくら、やってみまさア。
まず、最初に書く事といやア、お町の事でさア。
お町というのは隣村の名主んちの娘で、あっしが惚れた、まったくもって、いい女なんでさア。
そのお町の奴が、あっしの知らねえ間に話を決めて、嫁に行きやがった。
相手は伊与久(いよく)村の塾の先生だってよ。
まったく、つまらねえ奴ん所に行きやがったぜ。
こんな事になるんなら、去年の秋祭りん時、やっちまえばよかったよ。
あいつの兄貴に嘉藤太(かとうた)って野郎がいるんだが、あの野郎が、俺の悪口をお町に言いやがって、お町もそいつを信じて、俺に会おうとしなくなっちまった。
畜生め、嘘八百を並べ立てて、大げさに言ったに違えねえぜ。
あの野郎がいなかったら、うまく行ってたのによお。
花嫁行列に踏み込んで、お町をかっさらってやろうと思ったが、またもや、嘉藤太の野郎のお陰で、いい恥をかいちまったぜ。
俺の嫁にするつもりだったのによお、まったく、勿体ねえ事をしたもんだ。
あんないい女は滅多にいねえよ。
おめえさん方にも見せてやりてえが、残念ながら、写真はねえ。
180年後のおめえさんたちにわかるように絵に描いたら、こんな感じだんべ。
まあ、じっくりと見てやってくんねえ。
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