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2006年8月20日 (日)

女壷振りは境宿の名物さ

国定忠治の無頼日記38   文政13年(1830)11月~21歳

緋牡丹博徒 鉄火場列伝

おりん姉さん伊三郎の弱みを探るために、島村一家に草鞋を脱いだんさ。伊三郎の奴、おりん姉さんが壷を振るって聞いて、大喜びで迎えたらしいぜ。おりん姉さんはさっそく、桐屋の賭場で壷を振って、旦那衆を喜ばせたんさ。

百々一家の伊勢屋では
お辰が壷を振って、島村一家の桐屋ではおりんが壷を振って、二人の女壷振りの噂は他国まで知れ渡って、境宿の名物になっちまった。おりんが弁天なら、お辰は吉祥天だって言い出す者が現れて、いつの間にか、吉祥天のお辰ってえ通り名が付いちまったよ。弁天と吉祥天のどっちが勝ったってえ事アなく、どっちの賭場も大賑わいさ。

伊三郎の事はおりん姉さんに任せて、俺たちゃ、堅気の衆をしっかりと味方に付けるために、ちょっとした揉め事が起こりゃア、すぐに飛んで行って解決してやり、村のためになる事にゃア進んで協力したんさ。

うめえ具合に、いつも騒ぎを起こしている文蔵がお辰に夢中になって、つまらねえ喧嘩をしなくなったんは助かったぜ。お辰の方は、おりん姉さんに負けられねえと壷振りに真剣になってるんで、色恋沙汰には興味を示さねえが、文蔵の事を嫌えじゃねえようだ。二人がうまく行ってくれりゃあいいと、俺アひそかに思ってるんさ。

侠客 国定忠次一代記

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2006年8月 8日 (火)

忠治の家族

国定忠治の周りの人たち.4

国定忠治は文化7年(1810)、上野国佐位郡国定村(群馬県伊勢崎市国定町)に生まれました。

父親は長岡与五左衛門(1784-1819)、母親(1792-1845)は間野谷村の金田助五郎の娘でした。

本名は長岡忠次郎で、忠治というのは俗称です。本来なら、忠次と書くべきなのですが、忠治の方が一般的になってしまったようです。忠次本人は、そんな事ア、どっちでもいいやな、と言いそうですが。

祖父は権太夫といい、忠治が7歳の時に亡くなっています。祖母は忠治が生まれた時にはすでに亡くなっていました。

二つ年上の兄がいたようですが、幼くして亡くなり、四つ下に弟の友蔵(1816-1889)がいます。

忠治が生まれた長岡家は名主を務めた事もある家柄で、八反屋敷と呼ばれる広い敷地を持つ裕福な農家でした。

父親は赤堀村の本間仙五郎の道場で念流の剣術を習い、なかなかの腕だったようです。仙五郎の倅の千五郎と同い年で、兄弟弟子の間柄です。後に、忠治は千五郎から剣術を習います。

父親がもう少し長生きしていたら、忠治の生き方も違っていたでしょうが、父親は忠治が10歳(数え年)の時、36歳の若さで亡くなってしまいました。残された母親は二人の子供を抱えて苦労した事だろうと思います。

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2006年8月 5日 (土)

島村の伊三郎

国定忠治の周りの人たち.3

国定忠治に殺された島村の伊三郎は東上州の利根川流域を仕切っていた親分でした。

船問屋の倅に生まれて、二十代の半ば頃、無宿者になって島村一家を張ります。本姓は町田といい、背丈が6尺もあった大男だと伝えられています。最初の縄張りは島村と平塚河岸でした。

当時の平塚は江戸と上州を結ぶ航路として栄えていました。江戸からの船が平塚まで上って来て、様々な物資を運んでいたのです。河岸には船問屋の土蔵がいくつも並び、大勢の人足たちが働いていました。当然のごとく博奕が盛んで、稼ぎになる縄張りでした。

伊三郎は利根川筋の小さな一家の親分たちを吸収して勢力を広げて行きます。30歳の頃、八州様と呼ばれた関東取締出役(とりしまりしゅつやく)の道案内になって十手を持つようになります。

道案内というのは江戸でいう岡っ引きみたいな者です。関東の地は支配者がバラバラで、細切れ状態になっていました。悪い事をしても支配者の違う土地に逃げ込めば、捕まえる事はできません。そこで、幕府が考えたのが関東取締出役です。彼らは誰の土地だろうが入って行って悪人を捕まえる権限を持っていました。しかし、江戸に住んでいる八州様には土地勘がなく、道案内を必要としたのです。

本来なら、道案内は各地の名主が勤めるべきなのですが、無法者を捕らえるには、その道の者の方が具合がいいので、博奕打ちの親分たちが勤めるようになりました。お上のお勤めをするかわりに、お目こぼしをしてもらうというわけです。

博奕打ちでありながら、お上の手下を勤めている者を二足の草鞋と呼びました。国定忠治はそんな筋の通らない事はないと言って嫌いましたが、二足の草鞋を履いていた親分はかなりいました。忠治を助けた玉村の佐重郎も前橋の福田屋栄次郎も二足の草鞋でした。

勢力を広げて行った伊三郎ですが、境宿を縄張りとする百々一家を配下に加える事はできませんでした。絹市の開かれる境宿は相当な稼ぎになる縄張りです。伊三郎は何としても、手に入れようと企みます。そして、百々一家の跡目を継いだ国定忠治と対立するわけです。

天保5年(1834)7月2日、日の暮れた後、世良田の賭場へ向かう伊三郎の一行を忠治たちが襲撃しました。伊三郎44歳、忠治25歳でした。

伊三郎は忠治を見くびっていたのでしょう。もし、自分が忠治の立場だったら、同じ事をしていただろうに、そんな事まで考えず、忠治にそんな度胸はないと軽く見ていたようです。

伊三郎の死後、島村一家は分裂してしまい、忠治の勢力は広がって行きます。

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