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2006年4月29日 (土)

驚くなよ、俺は百々一家の親分だぜ

国定忠治の無頼日記31   文政13年(1830)8月20日~21歳

倒れた親分のお見舞いに前橋から福田屋栄次郎親分が来てくれたんだ。この前、助けてくれた時に一緒だった代貸らしい男も一緒だった。

お見舞いが済んだ後、俺は栄次郎親分に呼ばれて、この前のお礼を言ったんさ。本名を名乗ったら、栄次郎親分は驚いて、おめえが国定村の忠治だったのかい。噂は兄弟分の栄五郎親分玉村の佐重郎親分から聞いてるぜって言ったんだ。俺は今までのいきさつを簡単に説明したんさ。

そしたら、栄次郎親分は飛んでもねえ事を言い出したんだ。この俺に、百々一家を立て直してみろってな。そして、栄次郎親分の連れの男が、あっしに手伝わせてくれって言い出した。日光の円蔵って名で、栄次郎親分とこの客人だったんだ。昔、山伏だったんで、兵法とかに詳しいらしい。

よく考えておけって言って、栄次郎親分は帰って行った。

それから一ヶ月経っても、親分の具合はよくならなかった。このままじゃ、うまくねえと、親分の兄弟分の川田村の源蔵親分八寸村の七兵衛親分、そして、福田屋栄次郎親分が相談して、百々一家の跡目を俺に継がせる事に決めちまったんだ。

俺はまごついたぜ。だって、文蔵兄貴を差し置いて、俺が親分になるわけにゃアいかねえぜ。でもよ、親分たちが文蔵兄貴を説得したらしくて、文蔵兄貴は俺の子分になるって言ってくれたんだ。

うれしかったねえ。俺は引き受ける事にしたよ。日光の円蔵さんが客人として残ってくれたんで、助かったぜ。強え味方ができたって感じよ。

俺たちは一致団結して、改めて、伊三郎と戦う覚悟を決めたんさ。

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2006年4月24日 (月)

てえへんだア、親分が‥‥‥

国定忠治の無頼日記30   文政13年(1830)7月20日~21歳


代貸の新五郎の兄貴が殺されて、岩吉の野郎が逃げて、百々一家の子分の筆頭は文蔵兄貴になっちまった。

文蔵兄貴の下にがいて、保泉の久次郎茂呂の孫蔵山王道の民五郎八寸の才市富塚の角次郎、そして、三下奴の宇之吉清蔵だけになっちまったのよ。これじゃア、一つの賭場を開くのがやっとの人数だぜ。とても、殴り込みなんかできやしねえ。

まったく、落ち目になると賭場には客が来ねえし、雲助までもがどっかにずらかっちまったよ。

兄貴が殺されてから三日後だ。伊三郎の奴がでけえ面して来やがった。十手をかざして、新五郎の兄貴をやった奴の目串がついたと抜かしやる。用心棒の浪人者を連れていて、そいつが兄貴をやったに違えねえって思ったけどよ、情けねえ事に、今の俺たちゃ何もできねえ。俺は歯を食いしばりながら、伊三郎の首を後ろからたたっ斬ってやるべえかと思ったぜ。

伊三郎の奴は嘘八百を並べ立てて、帰って行きやがった。親分もよっぽど腹が立ったんだんべえ。塩を撒いとけって大声で怒鳴ったよ。その後がいけねえや。親分が急に倒れちまったんだ。

境宿から蘭方医の村上隋憲先生を呼んで来て診てもらったけど、半身不随になっちまった。しゃべる事もできねえんだ。

畜生め、こんな時、親分が倒れちまうなんて、俺たちもとうとう、お天道様に見放されちまったようだ。文蔵兄貴も気落ちして、百々一家はもう終わりだって、やけ酒をくらってらア。

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2006年4月20日 (木)

ぶったまげたぜ、お仙さんが‥‥

お仙さん

国定忠治の無頼日記29   文政13年(1830)7月17日~21歳

今日は市日だってえのに、新五の兄貴が出て来ねえんで、文蔵兄貴と俺は迎えに行ったんさ。

新五の兄貴の女はお仙さんていって、境宿で居酒屋をやってるんさ。ほんとに、色っぺえ、いい女だぜ。

「賭場の事も忘れて、兄貴はお仙さんとしっぽり濡れてるに違えねえぜ」って、俺たちはニヤニヤしながら戸を叩いたんさ。表が閉まってるんで、裏に行って声を掛けたんだが、返事はねえ。

戸を開けて中に入ってみると、うちん中はメチャメチャになっていやがった。シーンと静まり返っていて、人のいる気配はねえけど、何か変な臭いがしたよ。

「こいつアどうなってんだい」って俺が文蔵兄貴に言ったら、兄貴の奴、妙な声を挙げてひっくり返ったんだ。「大変だ」って兄貴の指差す方を見たら、何と、お仙さんが首をくくっていたんだぜ。俺も腰を抜かしそうだっよ。

お仙さんは髪をクシャクシャに乱して、目ん玉が飛び出して、口から血を流していたよ。着ている浴衣はクシャクシャになってはだけて、帯で首を吊っていたんだ。

まったく、ぶったまげたぜ。

部屋の様子から、お仙さんは何者かに手籠めにされたらしい。しかも、何人もの男にやられたようだった。それを知った新五の兄貴は仇を討ちに行き、その後、お仙さんは首をくくったらしい。どこに行っちまったのか、兄貴はいつになっても戻って来ねえんだ。

そして、次の日の朝、世良田のはずれで新五の兄貴の死体が見つかったんだ。

伊三郎の仕業に違えねえって思っても、証拠がねえ。俺たちが殴り込みを掛けべえって言っても、親分は許さなかった。下手に動きゃア、今の百々一家なんか簡単に潰されちまうって言うんだ。

畜生、悔しかったぜ。兄貴やお仙さんの仇も討てねえなんて、情けねえし、はらわたが煮えくり返っていたよ。おまけに、中盆の岩吉はてめえの女を連れて夜逃げしやがった。兄貴の二の舞を踏んで、てめえの女を手籠めにされるのを恐れたに違えねえ。まったく、情けねえ野郎だぜ。

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2006年4月18日 (火)

お町は村一番の器量よし

国定忠治の周りの人たち.1

忠治が惚れたお町は国定村の隣村の田部井(ためがい)村に生まれました。

忠治とは同い年です。

父親は尾内(オナイ)市太夫といいますが、お町が幼い頃に亡くなったようです。

庄八という兄がいて、博奕打ちになって、尾内の嘉藤太(かとうた)と呼ばれます。

お町が六歳の時、母親も亡くなり、隣に住む本家の尾内弥平次の養女になります。

弥平次は名主を務めていて、お町は名主の娘として育てられ、読み書き、そろばん、裁縫など、一通りの芸事を習います。

村一番の器量よしで、忠治だけでなく、若者たちの憧れの的でした。

16歳の時、伊与久(いよく)村の深町某に嫁ぎますが、二年後には別れて戻ってきます。

伊与久村の深町家というのは、学者の家系で、忠治の死後、忠治の悪口を残した深町北荘という人も出ています。

堅苦しい家柄に耐えられなくなって、離縁したのかもしれません。

田部井村に戻ってきたお町は忠治と再会して、忠治の妾(めかけ)になります。

本妻のお鶴は忠治の実家を守っていて、やくざ渡世に関係しなかったので、お町が子分たちからアネサンと呼ばれていました。

忠治との間に子供はなく、忠治が捕まった時も一緒にいました。

その時は41歳でしたが、相変わらずの美人で、10歳は若く見えたと伝えられています。

忠治の処刑後、その美貌ゆえに、新田郡田中村の田中秀之進の妾になります。

秀之進が尊王運動に身を投じて処刑されると、東小保方(ひがしおぼかた)村の高橋某の後妻に納まります。

高橋某の病死後、田部井村に戻って、裁縫の師匠として過ごし、忠治の死から20年後の明治三年、61歳で亡くなりました。

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2006年4月12日 (水)

簀巻きにされて、川に流されるとこだったぜ

国定忠治の無頼日記.28   文政13年(1830)6月25日~21歳

新五の兄貴はじっと我慢して、騒ぎを起こすなと言ったが、俺たちゃ我慢なんかしてられなかった。文蔵兄貴と俺は旅人姿になって、伊三郎の賭場を荒らし始めたんだ。

小せえ賭場はうまく行ったんだが、中瀬河岸の賭場に入っちまって、しくじっちまった。思ってたよりでっけえ賭場で、十人余りの旦那衆がいて、盆の上にゃア、漆塗りの上駒がいくつも張られていたよ。ざっと見たところ、二、三十両は動いていたに違えねえぜ。

しまった、と思ったが、もう後の祭りよ。こいつア、ひと暴れしてずらかるしかねえって、文蔵兄貴とうなづき合ったんたがよお、兄貴の奴は、「失礼いたしやした」って頭を下げると一人でさっさと逃げちまったんだぜ。

俺アたまげて、兄貴の後を追おうとしたけど遅かった。若え衆に取り囲まれて、もうどうする事もできねえ。外に放り出されて、メチャメチャに殴られちまったぜ。

どこの野郎だと聞かれたが、俺は本名は名乗らなかった。武州無宿の国次郎って、でまかせを言ったのさ。幸いに俺の顔を知ってる奴がいなかったんで助かったが、筵で簀巻きにされちまったよ。このまま、川に捨てられちまったら、生きちゃアいられねえ。まだ、死にたかアねえって俺アわめいたが、猿轡を噛まされて、何も言うことができなかったんだ。

まったく、情けなかったねえ。死ぬ前に

お町に会いてえって思ったよ。お鶴にも会いてえってな。

でもよお、おてんとさんは俺を見捨てちゃアいなかった。その賭場に大前田の栄五郎親分の兄弟分の福田屋の栄次郎親分がいたんだ。栄次郎親分さんとは面識はなかったんだが、栄次郎親分さんは俺を助けてくれたんだ。栄次郎親分さんには本名を名乗りたかったけど、誰が聞いてるともわからねえんで、俺ア国次郎のままでお礼を言ったのよ。

顔は腫れ上がり、体中が痛くて、とぼとぼ歩いてたら、文蔵兄貴が現れた。俺は文句を言ったが、兄貴は俺を助けるために隠れてたって言うんだ。あん時、二人で長脇差を抜いていたら、二人とも殺されていたぜ。どっちかが逃げて、もう一人を助けるしかなかったって言うんだ。そう言われりゃアそうかもしれねえって思うけどよお、まったく、ひでえ目に会ったぜ。

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2006年4月 6日 (木)

はらわたが煮えくり返ったぜ、くそったれが!

国定忠治の無頼日記.27   文政13年(1830)5月11日~21歳

お町と会って、いい気分で帰って来たら、みんながさえねえ面して集まっていたんだ。

何があったんだって三下の清蔵に聞いてみたら、代貸の助次郎兄貴惣次郎兄貴が裏切って、伊三郎んとこに行っちまったってえじゃねえか。

信じられなかったが、本当だったんだぜ。しかも、その二人は自分の子分たちも引き連れて行っちまったんだ。まあ、たまげたねえ。そんなことが起こるたア夢にも思わなかったぜ。

いつもなら、裏切り者は許せねえって、いきり立っているはずの新五郎兄貴も、これだけの人数じゃアどうしょうもねえって、情けねえ顔をしてたよ。

俺は文蔵兄貴に殴り込みをかけべえって言ったんだけどよお、文蔵兄貴も乗っちゃア来なかった。伊三郎の奴はいつも大勢の子分に囲まれていて手出しができねえって言うんだ。

このままじゃア気が治まらねえ。何とか、仕返しをしなきゃならねえって夜遅くまで考えたんだが、いい考えは浮かばなかったよ。今は敵も警戒してるから、油断するまで待つべえってことになったんさ。

次の日は市日で、伊三郎の子分どもが当然といった顔で境宿にやって来て、大黒屋、佐野屋、桐屋の三ヶ所で賭場を開きやがった。百々一家の賭場は伊勢屋の一ヶ所だけになっちまったんだ。まったく、情けねえこった。

伊三郎の子分どもはでけえ面して境宿を歩いていやがったが、紋次親分の厳命で、俺たちゃ手が出せなかったんだ。騒ぎを起こしたら、縁を切るって言われてたんだ。

はらわたが煮えくり返るほど悔しかったぜ。くそったれが!

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2006年4月 4日 (火)

磔の忠治を演じたその時から忠治伝説は始まった

国定忠治に関する本.2

国定忠治

『国定忠治』     高橋敏著 岩波新書 2000年


悪政と腐敗に立ち向かうアウトローの壮絶な生涯


1850年冬、上州大戸の関。大観衆の見守るなか「磔(はりつけ)の忠治」を見事に演じたその時から、忠治伝説は始まった。

体制から離脱し反骨をつらぬいた生涯から見えてくる公的支配の実態とは?

幕府が崩壊に向かう時代の社会の激動に注目し、伝承の世界に長く閉じ込められてきたアウトロー忠治の実像を、歴史のなかに位置づけ直す。(表紙カバーの折り返しより)

 国定忠治

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2006年4月 3日 (月)

庶民に慕われた国定忠次(忠治)の一代記

国定忠治に関する本.1

侠客国定忠次一代記

『侠客(おとこだて) 国定忠次一代記』

                      井野酔雲著 あさを社 1998年


赤城の山も今宵かぎり‥‥‥あれから150年、からっ風に吹かれて、あの親分が帰って来た。


いいか悪いかってえのはなア、見方によって変わるもんなんだぜ。

お上の立場から見りゃア、お上に楯突いた親分さんは極悪人だ。

だがよお、百姓たちから見りゃア、違った見方になるんだぜ。

悪口を言う奴らはみんな、お上の立場に立って物を言うお利口さんよ。

親分さんを盗っ人呼ばわりする奴らはな、あくでえ事をして弱え者から銭を絞り取った汚ねえ奴らさ。

親分さんに弱みを握られ、てめえから銭を差し出したくせして盗まれたと抜かしやがる。

実際に、その目でじっくりと、本物の親分さんを見てやっておくんなせえよ。(装丁の帯紙より)

 侠客 国定忠次一代記

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2006年4月 2日 (日)

壷振りは忙しいけど稼ぎはいいぜ

壷

国定忠治の無頼日記.26   文政12年(1829)10月~20歳

柴宿の啓蔵の裏切りがあってから、紋次親分は酒浸りになっちまったんだ。代貸に裏切られたんが、余程、くやしかったんだんべえなア。

俺たちゃ裏切り者は許せねえって殴り込みをかけたんだけどよ、啓蔵の奴は子分を連れて旅に出ちまった。啓蔵のシマにゃア、島村一家の子分どもがでけえ面していやがるんだ。

文蔵兄貴は島村の野郎どもをたたっ斬ってやるべえって息巻いて、俺もそうすべえって賛成したんだ。奴らをたたっ斬って、また旅にでるべえって思ったんだけど、新五郎の兄貴に止められちまった。

そんな事をしたら、伊三郎の思う壺にはまっちまう。待ってましたと伊三郎の奴は十手を持って乗り込んで来て、境宿を乗っ取っちまうだんべえって言うんだ。悔しいけどよお、親分の事を考えて、俺たちもじっと我慢したんさ。

啓蔵の奴はいつになっても帰っちゃア来なかった。

俺たちもいつの間にか、奴らの事ア忘れて、毎日、賭場で壷を振っていたんさ。前よりずっと忙しくなったけど、稼ぎもよくなってな、弟分を引き連れちゃア得意顔で遊び回っていたのよ。

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