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2006年3月31日 (金)

俺たちゃ壷振りに格上げになったぜ

国定忠治の無頼日記.25   文政12年(1829)10月11日~20歳

絹糸

境宿の絹糸市は賑やかなんだぜ。市の立つのは二と七の付く日で、その六日間は大忙しさ。

市は上市、中市、下市の三ヶ所で順番にやるんだ。百々一家の賭場も三ヵ所にあって、市のある日は三ヶ所同時に開かれるんだ。俺は文蔵兄貴と一緒に上町にある伊勢屋の賭場にいるんさ。

俺たちゃまだ賭場を開帳する事ア許されちゃアいねえんで、市のねえ日は雲助相手に修行を積んでるんさ。今日も汗臭え人足部屋で壷を振ってたのよ。久次孫蔵が交替にやって来たんで、俺と文蔵兄貴は1杯ってから女の所に行くべえって、井戸端で顔を洗ってたんさ。

そこに三下奴の清蔵の奴が血相を変えて飛び込んでき来やがった。どっかで、喧嘩でもおっ始まったんかと聞いてみりゃア、代貸の啓蔵兄貴が子分を引き連れて、島村の伊三郎の子分になっちまったってえじゃねえか。俺アたまげたよ。まさか、代貸が裏切って、寝返るたア思ってもいなかったぜ。

裏切り者を許すしちゃおけねえって新五郎の兄貴が殴り込みを掛けるって息巻いて、俺たちも喧嘩支度をしたんだけどよお、親分は許しちゃアくれなかった。

明日は市日だから、啓蔵が預かっていた佐野屋の賭場の後釜を決めるんが先決だって言って、惣次郎の兄貴が代貸に格上げになったんさ。そしてよお、俺が佐野屋で壷を振る事に決まったんだぜ。文蔵兄貴も伊勢屋で壷を振るんさ。

裏切り者は許せねえけどよ、奴らのお陰で、俺たちの格が上がったってえわけよ。嬉しかったねえ。俺たちゃ、その晩、みっちり稽古をしてよ、明日の本番に備えたってわけよ。

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2006年3月28日 (火)

二人の機嫌を取りながら、うまくやってるのさ

国定忠治の無頼日記.24   文政12年(1829)5月~20歳

鯉のぼり

あっという間に1年が過ぎちまった。

俺の顔もちったア売れて来たんだぜ。何かが起こりゃア、文蔵兄貴と一緒にすっ飛んで行って解決してやってるんさ。絹市の揉め事や、飲み屋の喧嘩騒ぎ、ゆすりにたかり、下らねえ夫婦喧嘩まで解決してやってるんさ。まあ、それなりの礼金とやらも貰えるんでな、俺たちゃ、すぐに飛んで行くのよ。

文蔵兄貴は相変わらず、木崎宿の女郎屋に通ってるけど、俺ア付き合わなかったよ。何てったって、お町の奴が待っててくれるんだもんな。女郎なんかに用はねえってことよ。

お町は俺が帰ると名主んちから嘉藤太んちにやって来ていたんだけどよお、とうとう、俺と会ってる事がばれちまってな、名主に猛反対されたんだ。以前のお町だったら、名主に逆らえなかったけど、今のお町は昔とは違わア。名主んちを飛び出して、嘉藤太んちに戻って来たんさ。

俺ア暇さえありゃア、お町に会いに飛んで行くのよ。勿論、お鶴んとこにだって、たまにゃア帰るさ。

お鶴はやっぱり、お町の事を知ってたんだ。俺がお町に会った事を知ると泣きながら怒りやがった。でもよお、別れるたア言わなかったよ。

俺はよく考えてみた。お町と一緒になりてえが、お町はおふくろと一緒に養蚕や機織りをやるようなガラじゃねえ。俺としてもそんな事アさせたかねえ。お鶴にはおふくろの面倒を見てもらって、お町には、俺が一家を張った時に、あねさんとして子分たちの面倒を見てもらうべえって思ったんだ。

俺ア二人の機嫌を取りながら、うまくやってるってわけさ。

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2006年3月24日 (金)

もう、二度と離さねえぜ

お町

国定忠治の無頼日記.23   文政11年(1828)4月~19歳

奥座敷で、しょんぼりと座っていたお町は俺の顔を見ると微かに笑ったよ。娘時代のような派手な着物は着てなかったけど、笑顔は昔のままだったぜ。

俺ア「やあ」と言って、お町の向かいに座ったんさ。なぜか、かしこまっちまったぜ。

お町は三年前より綺麗になっていた。苦労したとみえて、少しやつれたような感じもしたけど、かえって、色っぽくなったように思えたぜ。

一目見た瞬間に、俺ア、もう二度とお町を離したくはねえって思ったんさ。

「お久し振りです」ってお町は言った。

俺アまるでガキの頃に戻ったかのように胸がドキドキしてきやがった。

俺ア思わず、「会いたかったぜ」って言ったよ。

お町は、「バカだったわ。あなたのお嫁さんになってればよかった」って言ったんだ。

俺ア夢を見てる気持ちでお町を見てたよ。そして、「おめえのために、お鶴とは別れる」って言っちまった。素面じゃア照れくせえんで、その後、一緒に酒を飲んだんさ。

いつの間にか、嘉藤太の奴はいなくなっていた。まったく、にくい事をしやがるぜ。

俺たちゃ、離れていた三年間の事を話し合って、その後はお決まりよ。夢のような時を過ごしたんさ。

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2006年3月20日 (月)

俺ア腰を抜かすくれえに、たまげたぜ

腰抜け鳥

国定忠治の無頼日記.22   文政11年(1828)4月~19歳

昔の仲間を集めて、騒ぐんだんべって思ったのによお、嘉藤太んちはやけに静かだったぜ。

あの野郎、うちに寄ってくれって言ったくせに、遊びに行っちまったらしい。

それにしても、荒れ果てていた破れ家が、やけに綺麗になっていやがる。俺が帰って来たら、一家を張れるように直したって、前に富五郎が言ってたけど、どうやら本当らしいや。

留守だと思ってたら、「おう、よく来てくれたなア」って嘉藤太が顔を出したよ。みんなもそのうち集まって来るんだんべえと俺ア上がらせてもらったんさ。

嘉藤太の奴、嬉しそうにベラベラしゃべっていやがった。俺が立派な親分になるに違えねえって言いやがる。まったく、照れるぜ。そしてよお、急にお町の話なんかし出して、もし、お町が離縁して帰って来たらどうするなんて聞きやがるんだ。

そんな事アあるわけねえって俺ア言ったが、嘉藤太はニヤニヤ笑っていやがった。

もしかしてって聞いたら、お町は半年前に帰って来たって言うんだ。

俺アたまげたぜ。お町が戻って来たとは夢にも思わなかった。そういやア、うちを出る時、嘉藤太んちに行くって言ったら、お鶴の奴、行かないでって言いやがった。お町の事を知ってたに違えねえぜ。

嘉藤太の話によると、俺が百々一家の子分になった頃、お町は突然、名主んちに帰って来たらしい。帰って来てからずっと、うちに籠もりっきりで、嘉藤太にも本当の事はわからなかった。名主も世間体があるから、体の具合が悪くなって養生してるって言うだけで会わせてもらえなかったらしい。それが、この間、ひょっこり、嘉藤太んちにやって来て、すべてを打ち明けたんだそうだ。

なんと、離縁した理由は俺の事だってえじゃねえか。お町が俺に会いたくなって、離縁して帰って来たって言うんだぜ。俺ア腰を抜かすくれえにたまげたよ。

「奥の座敷で待ってるぜ」と嘉藤太は言いやがったよ。

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2006年3月17日 (金)

「どこ行ってたのよ、このバカ」って言って泣き出しやがった

やさぐれ刑事

国定忠治の無頼日記.21   文政11年(1828)4月~19歳

旅から帰って来たのは三月も末になっていやがった。

俺の命を狙っていた久宮一家の件はうまくケリが着いてたよ。話を聞いてみりゃア、そいつは俺が殺した奴の兄弟分でも何でもなく、嘘をついていたんだとさ。客人扱いされて、いい気になっていたら、俺が戻って来たもんで、慌てて、どっかに逃げちまったらしい。情けねえ野郎だぜ。

百々一家にも慣れてきた四月の半ば、俺ア半年振りに国定村に帰ったよ。

村に帰る途中、ばったり、嘉藤太に会ったんだ。奴とは年中、喧嘩してたが、久し振りに会うと懐かしく思ったぜ。向こうも同じ思いらしく、俺の顔を見てニコニコしていやがった。

旅の話をちょっと聞かせて別れたんだが、「大事な話があるんだ。後でいいから、うちに来てくれ」って言うんだ。どうせ、昔の仲間を集めて、酒でも飲むんだんべえと思って、うなづいたんさ。嘉藤太は若え頃の原田芳雄さんて感じだアな。

うちに帰ると養蚕が始まっていて、おふくろお鶴も忙しそうに働いていたよ。二人とも元気そうなんで、俺ア安心したんさ。

おふくろは俺を見つけると裏庭の方に誘って、「とうとう博奕打ちになっちまったねえ」って言ったよ。すまねえって思ったが、もう、どうしょうもねえんだ。

おふくろはお鶴に、俺と別れて実家に帰れって言ったらしい。でも、お鶴の奴は帰らねえで、俺の帰りを待つって言ったんだそうだ。実家の方から、帰って来いって言われても、お鶴は帰らなかった。おふくろは目を潤ませながら、お鶴を泣かせるような事をするんじゃないよって言ったよ。そして、弱い者いじめだけは絶対にするんじゃないよって言った。俺はしっかりと頷いたよ。

お鶴は口を尖らせて怒った顔してやって来たけど、「どこ行ってたのよ、このバカ」って言うと泣き出しちまった。心配させて、すまねえって俺ア、お鶴を抱きしめたぜ。

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2006年3月15日 (水)

雪ん中で見た冬の海は凄かったぜ

国定忠治の無頼日記.20   文政10年(1827)11月~18歳

冬の海

長岡で合の川政五郎親分とこに草鞋を脱いで、次にゃア、出雲崎の勇次郎親分とこに草鞋を脱いだんさ。

政五郎親分はすげえ貫禄だったぜ。睨まれただけで、縮み上がっちまうくれえ凄みのある大親分さ。俺もあんな風になってみてえって憧れたぜ。

勇次郎親分はまだ若え親分さんで、年上の子分たちを顎で使っていたよ。四年前に亡くなった勇次郎親分の親父さんは越後一の大親分だったらしい。佐渡ヶ島を抜けた大前田の栄五郎親分の面倒を見たのが、親父さんの久左衛門親分だったそうだ。

俺たちゃ、勇次郎親分に客人として大歓迎されたぜ。年上の子分たちに囲まれていて、気楽に話のできる相手がいなかったらしい。俺たちは丁度いい話し相手として迎えられたわけさ。

出雲崎で俺たちゃ初めて海ってえもんを見たんだ。雪が降っていて寒かったなア。冬の海は話に聞いていた青い海と違って、黒くて、波が高くて、毎日、荒れ狂ったようだったぜ。

文蔵兄貴と「すげえ、すげえ」って言いながら、眺めていたんさ。上州の飯盛女は越後から来たのがかなりいて、兄貴の馴染みのおたねも越後の海の近くで育ったんだそうだ。こんなとこで育ちゃア芯の強えおなごにならアって兄貴は言ってたっけ。

海を見たんはいいけどよお、俺たちゃ上州に帰れなくなっちまった。越後と上州の国境は雪で埋まっちまって、慣れねえ奴が旅すると道に迷って凍死しちまうって言うんだ。急いで帰る事もねえんで、雪が溶ける春まで、勇次郎親分とこに世話になる事にしたんさ。

魚はうめえし、酒もうめえ。おまけに、娘っ子は色白のベッピンさんがいっぺえいるのよ。博奕を打って、村娘を口説いて、時には出入りの助っ人をしたりと、結構面白くやってるのさ。

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2006年3月14日 (火)

川田村にゃア、茗荷松の源蔵親分がいるんだぜ

三匹の侍   三匹の侍

国定忠治の無頼日記.19   文政10年(1827)10月20日~18歳

文蔵の兄貴と俺は川田村(沼田市)の茗荷松(みょうがまつ)の源蔵親分とこに草鞋を脱いだんさ。

源蔵親分は藤久保の重五郎親分と同じように、相撲取りから博奕打ちの親分になったんだぜ。もと相撲取りだけあって、貫禄のある親分さんだアな。ちょっと、とぼけた所のある面白え親分さんで、おめえさん方にわかるように言やア、『三匹の侍』に出ていた長門勇さんてとこだんべ。古いかもしんねえが、勘弁してくんねえ。

源蔵親分は俺の事をちゃんと知っていたんだぜ。嬉しかったねえ。

よくわかんねえけど、俺の事ア、渡世うちじゃア、評判になってるらしい。大前田の栄五郎親分さんに匿われていたって言ったら、てえしたもんだねえって感心してたっけ。

源蔵親分は俺たちを客人扱いしてくれて、居心地はよかったけど、俺たちゃ今度の旅で、どうしても、海っちゅうもんが見たかったんだ。なんせ、上州にゃア海がねえ。話に聞く、でっけえ海ってえもんを拝んでみたかったのよ。それで、雪が降るめえに、越後に行く事に決めたんさ。

越後に行くって言ったら、源蔵親分は、長岡にいる合の川政五郎親分宛ての紹介状を書いてくれたんだ。俺たちゃ知らなかったけど、政五郎親分は上州は邑楽郡(おうらごおり)の生まれで、旅から旅へと流れ歩いて男を売って来た大親分らしい。

俺たちゃ、源蔵親分に礼を言って、さらに北へと足を伸ばしたんさ。

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2006年3月13日 (月)

親分にこっぴどく怒られちまったよ

国定忠治の無頼日記.18   文政10年(1827)10月16日

いやア、まいったねえ。木崎宿でいい思いをした次の日の昼頃、文蔵兄貴と一緒に帰ったら、親分にこっぴどく怒られちまった。

まあ、親分は「若えうちは羽目をはずしたくなるもんさ」って太っ腹だったけど、代貸の助次郎兄貴はおっかねえ顔して怒鳴りやがったよ。みんなに挨拶もしねえうちから、遊び歩いていた俺が悪いんだから、素直に謝ったのさ。

そしたら、島村一家の子分が、俺の事を捜し回ってるらしくて、しばらく、旅に出てくれって言うんだ。久宮一家に俺が殺した奴の兄弟分が草鞋を脱いでいて、俺を仇と狙ってるらしい。

島村一家と久宮一家はつながっていて、島村の伊三郎親分は俺をだしに騒ぎを起こして、境宿を乗っ取ろうとたくらんでいるって言うんだ。下手な騒ぎを起こしちゃならねえって、俺はしばらく身を隠す事になっちまった。

文蔵の兄貴も年中、島村一家のシマ(縄張り)で賭場荒らしをしてるんで、一緒に旅に出ろって言われたんだ。俺ひとりだったら心細えけど、兄貴が一緒なら面白え旅になりそうだと、俺たちは顔を見合わせてニヤリと笑ったんさ。

縞の合羽に三度笠、長脇差を腰に差して、俺たちゃウキウキしながら、からっ風の吹く中を北へと向かったぜ。道中、何が起こるがお楽しみってわけさ。木枯し紋次郎じゃねえが、どこかで誰かが、きっと待っていてくれるって感じだぜ。

木枯し紋次郎(2) 木枯し紋次郎(3) 木枯し紋次郎(4)

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2006年3月11日 (土)

文蔵兄貴はムチャクチャだがよお、いい兄貴だぜ

菅原文太 人斬り与太     現代やくざ 人斬り与太 

国定忠治の無頼日記.17   文政10年(1827)10月15日~18歳

久次郎が俺の事を三ツ木の文蔵兄貴に紹介したら、「ほう、おめえが国定村の忠治かい。前から会ってみてえって思ってたんだ。まずは、兄弟分の盃を交わそうじゃねえか」って俺を居酒屋に連れてってくれたんだ。

昼真っから酒を飲みながら、兄貴は色んな事を教えてくれたよ。その後、平塚まで行って、素人衆がやってる賭場を荒らして、銭を巻き上げたんだ。

まったく、兄貴のやる事ア、ムチャクチャだぜ。

島村一家の縄張りに乗り込んで、島村一家の子分に成りすまして、「島村の親分の許しを得て博奕を打ってんのか」って、脅して銭を巻き上げたんだ。親分や兄貴たちには内緒で、ちょくちょくやってるらしい。

兄貴の話によると、島村の伊三郎親分は百々一家の縄張りの境宿を狙ってるんだそうだ。伊三郎は十手(じって)を持っていて、そいつをチラつかせて、どんどん縄張りを広げてるらしい。

二足の草鞋(わらじ)を履いてる奴は裏できったねえ事をしてるに決まってらア。そんな奴をのさばらしておくわけにゃア行かねえんだ、って兄貴は息巻いてたよ。

巻き上げた銭で、木崎宿に繰り出して、飯盛(めしもり)女のいる旅籠屋に上がったんだ。兄貴は馴染みのおたねってえ娘がいて、俺の相方はお寅って娘だった。名前は勇ましいが、あどけねえ顔をした可愛い娘だったぜ。

俺も何度か木崎で飯盛女を揚げた事アあったが、いつも厚化粧にごまかされて、朝になったらガッカリしたもんだが、お寅はほんとに可愛い娘だったぜ。兄貴のお陰でいい娘に巡り会えたと喜んだんさ。

巻き上げた銭を全部使って、その夜はドンチャン騒ぎよ。いい兄貴にめぐり会えてよかったって、俺アしんから思ったぜ。文蔵兄貴は若え頃の菅原文太さんてとこだんべ。

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2006年3月 6日 (月)

境宿はけっこう面白そうだぜ

岩城滉一 Destiny(時のままに流されて)

国定忠治の無頼日記.16   文政10年(1827)10月15日~18歳

保泉(ほずみ)の久次郎って子分がいてよお、俺の事を兄貴って呼んで、色々と教えてくれたぜ。

渡世人の世界じゃ、先に子分になった方が兄貴分なんだが、俺の方が年上だし、貫禄があるからって聞かねえんだ。まあ、兄貴って呼ばれるのも悪かねえから、久次郎の言う通りにしたんさ。久次郎は若え頃の岩城滉一さんみてえな感じの、なかなかのいい男だぜ。

久次郎の話によると、百々一家の縄張りは、日光例幣使(れいへいし)街道の柴宿から境宿までで、街道筋にいくつも賭場を持ってるという。

紋次親分の下に、木島の助次郎境の新五郎柴の啓蔵ってえ3人の代貸(だいがし)がいて、百々一家の三人衆って呼ばれてるんだそうだ。その下に、武士(たけし)の惣次郎馬見塚(まみづか)の佐太郎矢島の周吉という3人の中盆(なかぼん)がいる。

代貸ってなア、賭場で親分(貸元)の代理を務める者で、中盆てなア、掛け金を仕切る事のできて、時には壷を振る事もあるんだ。その下に、出方(でかた)って呼ばれる若え衆が、俺も入れて12人、その下に三下奴が6人いるらしい。

百々一家に隣接して、東に木崎一家、西に玉村一家、南に島村一家、北に伊勢崎一家があってな、玉村一家の佐重郎親分と伊勢崎一家の半兵衛親分栄五郎親分の兄弟分なんだ。それでもって、木崎一家の孝兵衛親分と島村一家の伊三郎親分は兄弟分なんだそうだ。

久次郎の案内で、まず、境宿を見て回ったよ。

西の丁切(木戸)を抜けると、すぐ左手に「伊勢屋」ってえ煮売茶屋があってな、市のある日に、そこの二階で賭場が開かれるそうだ。伊勢屋の隣に髪結い床があって、百々一家の連中が世話になってるらしい。

しばらく行くと右側に本陣がある。街道の両側には居酒屋、煙草屋、菓子屋、荒物屋、酒屋、太物屋、質屋などが並んでいて、宿場の中央に高札場と市場の神様を祀る石宮があった。

その先にも商店がずらりと並んでいて、けっこう面白そうなとこだって思ったぜ。

大間々へと向かう道の角に「桐屋」ってえ料理屋があった。桐屋の二階じゃア市日以外の日で、賭場を開いてるという。

桐屋の前に三人の若え者が座り込んで話をしていたよ。久次郎が、文蔵の兄貴って声を掛けたら、鋭え目つきの男が俺をジロリと見やがった。俺も負けるもんかと睨んでやったよ。

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2006年3月 3日 (金)

おめえが噂の忠治かい、って言われたぜ

宍戸錠「殺しの烙印」

国定忠治の無頼日記.15   文政10年(1827)10月15日~18歳

おひけえなすって‥‥‥て万次郎の兄貴から教わった通りに仁義を切ってやったぜ。

応対に出てきた紋次親分の子分は最初、俺を見て三下奴かって見下したような面をしていやがった。

俺が、国定村の忠次郎だって名乗ったら、目を見開いてたまげてやがったぜ。

さらに、栄五郎親分の添え状を見せたら、急にかしこまって、丁寧な態度で、俺を上げてくれたんさ。

さすがだねえ、栄五郎親分の御威光は大したもんだ。

客間に通されて待っていたら、さっきの子分がやって来て、紋次親分とこに連れて行ってくれた。

親分はでっけえ水墨画を背に、長火鉢を前にでんと座っていた。

栄五郎親分の兄弟分だけあって、貫禄のある親分だったぜ。一目見て、この親分なら子分になってもいいだんべえって思ったんさ。

隣に代貸(だいがし)らしい男が座っていて、「おめえが、噂の忠治かい」って聞いて来たぜ。

俺も有名になったもんだって嬉しかったけどよ、軽く見られねえように、そんな素振りは見せねえで、渋い声で、「へい」って言ったんさ。

紋次親分は、「大前田の兄弟は元気だったかい」って聞いて来た。

俺は言葉少なに、「お達者でした」って答えたよ。

親分はうなづいて、「兄弟に頼まれちゃア、いやとは言えねえや。藤久保で三下修行をやったようだし、仁義の切り方も作法にかなってる。子分にしてやってもいいぜ」って言ったんだ。

俺アすぐに子分の盃を頂戴したぜ。

これで、俺も一端の渡世人よ。もう、後戻りはできねえ。

斬った張ったの博奕渡世で、のし上がって行くしかねえのさ。

今に見ていやがれ!って俺ア心ん中で覚悟を決めたぜ。

紋次親分はどんな感じってか、そうだなア、ちっと古いが宍戸錠さんてとこだんべえ。

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2006年3月 1日 (水)

畜生め、あいつの事を思い出しちまったぜ

お町

国定忠治の無頼日記.14   文政10年(1827)10月15日~18歳

百々(どうどう)村ってなア、国定村の南、2里半(約10キロ)ぐれえんとこにあってな、絹糸市で栄えてている境(さかい)の宿場のすぐ東隣の村なんだ。

百々村の紋次親分と言やア、境宿を仕切っている親分だって事ア知っちゃアいるが、あまりよく知らねえんだ。でもよお、栄五郎親分の兄弟分て言うからにゃア、大した親分なんだんべえ。

とりあえずは、紋次親分のとこで修行を積んで、俺ア一家を張る事に決めたぜ。久宮一家の奴らを国定と田部井から追い出さなきゃならねえからな。

木島村まで来た時、ふと、お町の事を思い出しちまったぜ。

嫁に行っちまってから、すっかり、忘れてたのによお、お町の顔が急に、はっきりと瞼に浮かびやがった。

百々村とお町のいる伊与久(いよく)村は1里と離れちゃアいねえ。もしかしたら、どっかで出会うかもしれねえ。

嫁に行ってから、もう2年半にもなる。

お町の奴、相変わらず、いい女だんべか‥‥‥ばったり出合ったらどうすんべえ。

俺アしばらく、からっ風の吹く中、ボケッと立ち尽くしていたぜ。

「馬鹿野郎、何を考えているんでえ」

俺アお町の未練を吹っ切って、百々村を目指したんさ。

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