「侠客国定忠次一代記」が電子書籍になりました
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明けまして、おめでとうごぜえやす。
月日の経つのは速えもんで、2010年になっちめえやした。
あっしが生まれた文化7年(1810年)からちょうど200年になりやした。
200年といやあ長え年月が経っちまったなあ。
ちったあ世の中は良くなったんだんべえか。
あまり良くなったようには思えねえが、今年がいい年になるように祈っておりやすよ。
話は変わりやすが、50年前の正月映画に「任侠中仙道」ってえのがありやした。あっしが出て来る映画なんでさあ。
その年の三月には三船敏郎さんがあっしを演じた「国定忠治」ってえ映画もありやした。加東大介さんが日光の円蔵を演じて、丹波哲郎 さんが三木の文蔵、夏木陽介さんが板割の浅太郎を演じてくれやした。
最近はあっしの映画はできませんねえ。見てみてえと思いやすが無理だんべえかねえ。
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国定忠治の無頼日記67 天保6年(1835)7月~26歳
玉村宿に京蔵と主馬ってえ兄弟の博奕打ちがいるんだが、この野郎が調子に乗りやがって、あっしの子分の民五郎を滅多打ちにしやがった。
「くそったれ野郎、許しちゃおけねえ」って、俺アすぐに殴り込みをかけべえと思ったんだが、軍師に止められたよ。
玉村には十手を持った佐重郎親分がいる。俺が出張って行ったら、佐重郎親分を敵に回しちまう。あんな小物を相手に俺が騒ぐ事もねえって言うんだ。
軍師の言う事はもっともなんで、俺はじっと我慢して、民五郎の傷が治ったら甲斐新と角次郎をつけて送り込む事にしたんさ。佐重郎親分にゃ色々と世話になってるからな、敵に回したかアねえもんな。
十日後、民五郎の傷が治って、甲斐新と角次郎を連れて玉村に向かったよ。三人は弟の主馬を滅多斬りにして、甲州に旅立ったんさ。兄貴の京蔵は俺を恐れてどっかに逃げちまったようだ。
これで俺にたて突くふざけた野郎は出て来ねえだんべ。
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国定忠治の無頼日記65 天保6年(1835)7月~26歳
境宿の賭場を見回ったら、新しい女壷振りが2人もいて、ほんとにたまげたぜ。
大黒屋には羽衣のお藤がいて、佐野屋には観音のお紺がいたんだ。
羽衣のお藤はおりん姉さんが仕込んだ娘で、おりんさんが田部井(ためがい)村で壷を振っていた頃、おりんさんの真似をしていた娘の1人で、おりんさんに何度も断られても諦めねえで弟子になったんだそうだ。どことなく冷てえ感じのする、ほっそりとした美人で、それがまた賭場の雰囲気にぴったりなんさ。絶対に笑ったりなんかしねえもんで、物知りの旦那が「羽衣」ってえ能に出てくる天女にそっくりだと言ったことから、羽衣のお藤って呼ばれるようになったんさ。
観音のお紺は水沢観音で有名な水沢村から出てきたんで、観音のお紺と呼ばれているそうだ。お藤とは対照的にいつも微笑している可愛い女さ。お紺は4年前に父親と一緒に境の絹市に来て、おりん姉さんとお辰の噂を聞いて、父親と一緒に伊勢屋の賭場に入ったんだ。壷を振るお辰に憧れて、壷振りになりたいと父親に言うと父親は大賛成して、すぐに大久保一家で壷を振っていたという爺さんを連れて来て、お紺に仕込ませたんだ。お紺は爺さんと一緒に賭場を渡り歩いて修行を積んで、去年の末に百々村にやって来た。おりん姉さんの目にかなって、百々一家に入ったんさ。
伊勢屋の吉祥天のお辰、佐野屋の観音のお紺、大黒屋の羽衣のお藤、3人ともいい女で、どこの賭場も賑わっていたぜ。
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国定忠治の無頼日記64 天保6年(1835)7月~26歳
ひとっ風呂浴びて旅の垢を流して、さっぱりした後、軍師から今の状況を聞いて、御隠居(紋次)に挨拶をして、それから国定村に帰ったんさ。
先にお町に会うか、お鶴に会うか迷ったけどな、やっぱり筋道は通さなけりゃ、子分どもに示しがつかねえって思って、本妻のお鶴の方を先にしたのよ。
お袋もお鶴も元気そうだったぜ。秋の養蚕が始まって、忙しそうに働いていたよ。その夜はお鶴をたっぷりと可愛がって、次の日、お町んちに行ったんさ。
お町の奴、「一晩中、待ってたのに、何よ」って、すげえ顔して怒りやがった。箒を振り回して追い立てやがるんで、仕方なく、嘉藤太んちに逃げたんさ。
旅の話を聞かせた後、嘉藤太が頼みがあるって言ったんさ。何かと思ったら、一家の名前を百々一家から国定一家に変えてくれって言うんだ。国定村のみんなも、おらが村の親分が百々村にいたんじゃ面白くねえ。こっちで一家を構えてくれってな。
それも悪かアねえたア思うが、御隠居もいる事だし、すぐには無理だんべえが、そのうち考えるって俺は答えて、ちっと一眠りしたら、もう夕方になっていやがった。
お町んちに行って、まだ怒ってるかと様子を探ったら、お町の奴、縁側でしょんぼりしていやがった。俺が声を掛けたら、顔をふくらませたけど、にっこり笑って「お帰りなさい」って言ったよ。
まったく可愛い奴よ。酒を飲みながら、お町に旅の話を聞かせて、勿論、野沢のお篠の事は隠したけどな、のんびりと過ごして旅の疲れを取ったんさ。
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国定忠治の無頼日記63 天保6年(1835)7月~26歳
一年が過ぎて、やっと故郷に帰って来られたぜ。
下総の方に逃げてった富五郎たちも去年のうちに帰っていたようだ。うめえ具合に境宿が手に入って、人手が足らなくなって軍師が呼び戻したんだそうだ。
俺たちが伊三郎を殺して国超えした後、留守を守っていた軍師たちは殴り込みに備えて、待ち構えていたんだけどよ、いつになっても殴り込みには来なかったらしい。
伊三郎がいなくなった島村一家は仇を討つどころじゃなくて、跡目争いを始めやがったようだ。本家の彦六と代貸の林蔵が争い始めて、林蔵は殺され、平塚の留五郎も殺された。仲裁に入った世良田の弥七も殺されちまったという。
弥七の跡を継いだ茂吉の野郎が伊三郎を殺した百々一家に助けを求めて来るってえ、奇妙な事になったらしい。軍師は助けを求めている者を追い返すわけにも行かず、子分たちを引き連れて世良田に向かったそうだ。
彦六は裏切り者の茂吉を殺そうと代貸たちに声を掛けたが、以前から彦六のやり方に反感を持っていた代貸たちは島村一家から抜けて独立すると言ったそうだ。
島村一家は分裂して小せえ一家がいっぺえできて、それぞれが百々一家と張り合うほどの力もなく、境宿から出てったんだそうだ。軍師は桐屋と大黒屋の賭場を取り戻して、境宿は以前のごとく、百々一家の縄張りになったんさ。
まったく信じられねえ事だがよう、留守にしていた間に百々一家はでっかくなっちまって、知らねえ子分どもが何人もいやがった。
俺と文蔵が顔を出したら、殴り込みかと勘違えした勇ましい野郎もいたぜ。
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